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 巫蠱の禍は漢代政治史上の茶番劇だ。巫蠱をおこない、おこなった者を罰するのはすでに社会の病状の反映であり、逆に社会の病状を狂気の発作に向かわせる地歩となるものだ。十六から十七世紀、西欧のカトリックとプロテスタントの宗教裁判所が大規模な巫師弾圧[すなわち魔女狩り]をおこなった。これはある種宗教裁判官がすべての人を保護する形を取った宗教を樹立する運動である。しかし漢代の巫蠱の除去は政治的迫害であり、目的は皇帝個人の安全を維持することだった。

 前漢以降、偶像祝詛術によって何度も宮廷事変が引き起こされている。巫蠱術を用いて仇敵を攻撃したり、巫蠱の証拠を偽造して他人を陥れたりとかが陰謀をたくらむ者のやり口だった。偶像の種類はしだいに多くなり、偶像祝詛術の形式も複雑化していった。後漢和帝のとき陰皇后と外祖母鄧朱が「巫蠱道」によって皇帝と鄧貴人を呪詛した。

和帝の死後、ある人が和帝の寵臣吉成を陥れるために埋めた木偶を盗んだという。

東晋の画家顧愷(こがい)は自分を愛してくれない女性に制裁を加えるため、彼女の画像に針を刺した。

石勒が統治していた時代、庶民は過酷な官吏沐堅の偶像を作り、武器(小刀など)でめった刺しにした。

南朝の宋文帝のとき巫女厳道育らは宮中で埋められていた玉人を盗んで文帝を呪詛し、のちに鞭打ち刑に処せられ、殺された。さらに遺体は焼かれ、遺灰は長江に撒かれた。

宋明帝のとき、盧江王劉は邪教の巫の左道を信じ、明帝の画像の上に明帝の名を書き、「矢刃(矢と刀)に切り裂かれ、大鍋・鼎(かなえ)で煮られた」。

南斉・東昏侯蕭宝巻は巫師朱光尚を相国に任用した。朱は毎日祭神を十回以上おこなった。そしてついには「巫師や巫婆の出入りが激しい」状態になった。あるとき菰草(こも)を用いて斉・明帝の形状を作り、刀でその頭をたたき割った。また草の頭を門の上にかけて大衆に見せた。

同時代の人徐世(じょせひょう)は十余幅の(東昏侯)蕭宝巻の画を描いた。「それぞれ斬刑に処され、矢が当たりバラバラになっていた」。

北魏・孝文帝の皇后馮(ふう)氏は女巫に「祷厭」妖術をおこなわせた。まさに孝文帝の偶像の両脇に白刃が刺さっていた。

北魏の末年、術士劉霊助は群衆を集めて割拠し、「ついにフェルトを刻んで人偶を作った。桃木から作った書を符書とし、詭道厭祝法を成すと、これを信じる人が多かった。

隋朝楊広は木偶の手を縛り、心臓に釘を打ち、鎖の足かせをして、隋文帝楊堅と漢王楊涼の名を書き入れた。人に華山の麓に(木偶を)埋めさせ、腹心の楊素をふたたび送って発掘させた。これにより太子楊秀が巫蠱によって謀反を起こそうとした証拠を捏造した。その結果楊堅は楊秀を追放し、庶民の身に落とした。また楊秀の罪行を責め立てる(読み上げる)声も顔つきも厳しくならざるをえない詔書を書いた。

唐末の高駢(こうへん)は術士の呂用之を重用したが、呂はかえってひそかに三尺ほどの長さの桐木人を製作した。その胸には高駢の二文字が書かれていた。手には手かせ、足には足かせがはめられ、心臓には釘が打たれていた。

元朝が正式に建立される前夜、戸部尚書李徳輝は山西懐仁県を視察したとき、妾らが偶人を埋めて正妻を陥れようとした蠱毒案の無実の罪をそそぎ、名声を得た。

清代以来、偶像祝詛術はなおも民間で広くおこなわれていた。仇を討つために小麦粉から食用にもなる偶人を作り、針、釘を布偶に刺した。『紅楼夢』に描かれているように用紙を切って作った青面白髪鬼と紙人を同時に使用する。あるいは相手の(十二支で表した)生年月日を書いた紙を穴蔵に埋める呪詛などさまざまな方法があるが、ここでは詳しく述べない。要するに巫蠱術は中国の歴史上もっとも広く、深く影響を及ぼした巫術と言える。