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 陶宗儀『輟耕録』と長谷真逸(元末明初の華亭府の人・邵克穎か)『農田余話』は元末の術士王万里が採生妖術を用いて人を害した案件について記録している。両書は事の顛末を詳しく述べているが、役所の記録をもとにして書いたのだろう。妖気に満ちた奇妙な案件である。

 至正三年(1343年)九月、陝西省察罕脳兒(現・内モンゴル烏審旗西南)南街礼敬坊百姓王弼は、同地区義利坊平易店で新しくやってきた算命先生(占い師)の王万里と暇を持て余していた。そのときに王万里先生が「この地は水が浅い。竜をとどめおくことができない」といった。王弼は納得がいかず、言い争いになった。

九月二十九日夜、王弼が寝室で休んでいたところ、窓の外から恐ろしげな瓢箪(ひょうたん)を吹くような風の音が聞こえてきた[葫芦という楽器があるにはある]。この怪しい声はとおきおり出現したので、王弼は法師李江に依頼して邪気を駆逐させた。

呪術をおこなっていると、空中に「冤枉」(えんおう。冤罪を着せるという意味)と称する鬼の姿を見た。鬼(女)は、ここに来たのは算卦先生のせいだと泣いて訴えた。

王弼は村長や近隣の多くの人を呼び、鬼に向かって告げた。「おまえは鬼なのか、神なのか、明らかにせよ」。

鬼はこたえた。「われは豊州黒河村周大の女(むすめ)の周月惜である。母の姓は張、兄の名は那海、母方の舅は張大といい、本家の西隣の姓は董、北隣の姓は呉である。至元二年九月十七日夜、后院で王先生(王万里)が殺され、そのとき奴婢であったわれはあなたの家の怪哭の毛となり、衣服を求めるようになったのである」。

 王弼は鬼の話を記録させた。そしてそれをもとに官府が告発することになった。

 官府は泥棒を捕えるため官吏の盧を派遣し、村長の呉信甫の手引きによって王万里の住居を捜査した。押収したのは木印2枚。上に鉄針4本がのった黒縄2条。五色彩絹で包んだ厭鎮用の小さな女性形の紙8枚。五色絹糸と頭髪。中に琥珀2個をよそい、五色の織物で包んだ、赤いヒモの付いた小さなヒョウタン。朱字で書かれた護符。

しばらくして王弼が告発するには。蝋月初三(十二月三日)、空中から鬼のことばが聞こえてきた。「われは奉元路南坊開織機の耿大(こうだい)の子、耿頑驢、先生によって名を改め耿頑童であるぞ。十八歳の年、ひとりの老先生と三名の弟子によって殺害されたのである」。

蝋月二十二日、またも空中から鬼が語った。「われは察罕脳兒の李貼の子李延奴、またの名を李抱灰と申す者である。ひとりの老賊によって名を買売と変えた。そのとき十一歳だった」。

官府は王弼の訴状を見てすぐに王万里を逮捕した。また怨鬼の故郷に人を派遣し、鬼が言っていることと符合するかどうか実情を調査した。