(4)

王万里は罪行を洗いざらい供述した。本人によると、王は五十二歳で、江西省吉安路の人である。襄陽の周先生から陰陽算命術を学んで以来、各地を放浪した。

至順二年(1331年)三月、王は興元府(陝西省漢中)で術士劉先生と出会い、意気投合した。劉先生は言った。「わたしは人の心を惑わす法術を心得ている。收採生魂、すなわち魂を奪えばその家に禍をもたらすことができる。そうすれば家の人はかならずわれらのところへ来て祓うよう依頼してくる。これでもうもうけることができるのだ」。

さらにはこうも言った。「わたしは手に入れた生魂(生きた魂)をそなたに一つ売ることもできますぞ」。

 彼は手元から五色の彩絹と頭髪を入れた包みを取り出し、説明した。「これは延奴と呼ばれるものだ。わたしは占いをしたあと、性格がよくて聡明な童男童女を選び、符命(おふだ)、法水(清めの水)、呪文を用いて意識を朧気にさせ、鼻、口、唇、舌先、耳たぶ、目を切り取り、呪いをかけて生きた気を奪う。腹をさき、心臓や肝など内臓を取り出して小分けにし、日にさらして干したあとよく搗き砕いて粉末にし、袋に入れる。生魂とともに五色の彩絹を頭髪に結びつけ、紙で人形(ひとがた)を作り、符水呪(符命、法水、呪文)によってその家に怪異を起こすのだ」。

 王万里は話を聞いたあと劉先生にしたがって家に行き、生魂を手に入れた。夜になり、劉は香を焚き、呪文を念じ、符を焼き、しばらくすると暗闇の中から声が聞こえてきた。

「師父よ、どの家から何を探せばいいか教えてくれたのはあなたである」。劉は声に指図する。「李延奴よ、おまえはこちらの先生をお連れするがよい」。

 王はついに75貫銭で五色の絹と頭髪を買った。それで生魂の名を<買買>と改めたのである。劉は王に生魂の採取、駆使、そして拘束するための呪符について伝授し、戒めるように言った。「牛肉と犬肉を食べれば法を犯したことになる。食べてはいけない」。

 至順三年(1332年)、王万里は房州(湖北省房県)にやってきた。ここで、以前広州で出会った術士の昿先生と再会した。昿先生は言った。「わたしは鬼魂をつかわすことができるし、手に入れた生魂をあなたに売ることもできる」。王はお金を渡して昿先生の手から、五色彩絹に頭髪を結んで作った紙人を買った。それに<耿頑童>という名をつけ、李買買とともに働かせた。その後王万里は大同路豊州(内モンゴル呼和浩特)にやってきて、占い(算命)で生計を立てるようになった。

 至正二年(1342年)八月、王万里は豊州黒河村の周大家にやってきて、占い(算命)を試みた。見ると(娘の)周月惜が生まれながらに聡明であることがわかり、殺して魂を採るという考えを抱くようになった。

 九月十七日夜、王は周家の裏庭に潜伏し、ひそかに呪文を唱えて、中から裏庭に出てきた周月惜を連れ去った。そして呪術をかけて、「月惜が直立するのを禁じた。身に着けているものすべてを脱がせると、魚刀(魚切り包丁)を用いて額の皮を切り裂いた。そしてぶらさがっている眼球を引きちぎった。それから頭髪を切ってひとまとめにすると、紙人と五色彩絹を頭髪で結びつけ、人形のようなものを作る。そして鼻、口、唇、舌、耳たぶ、目、手の指十本、足の指十本を切り取る。さらに胸と腹を開けると意識を失い、倒れる。また心臓、肝臓、肺をえぐりだし、日にさらして粉末になるまでよく搗く。この粉末は小さめのヒョウタンに入れる」。

 翌年の九月、察罕脳兒にやってきて平易(算命)店を開いた。彼は王弼と仇敵の関係にあったので、周月惜ら三名の生魂を王弼家に送って禍を作らせた。その間に王万里は肉屋に行って食用の馬肉を買った。店は家用の牛肉を馬肉に混ぜて彼に売ったので、彼は間違って食べてしまい、紙人を収めることができなくなってしまった。

 ここにおいて罪状があきらかになった。察罕脳兒宣慰司は本件の訴状を陝西行省に送った。陝西行省は中書省に送り、意見を求めた。のちに中書省と刑部の批准を経て王万里は凌遅の刑[バラバラにして、かつ息絶えるまで時間をかける残酷な処刑]に処せられた。王氏の家族(妻子)は海南島に流刑になった。