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 明清代の頃、木偶を用いて吉凶を予測する法術が民間に流布していた。この木偶は俗に「樟柳神」[樟(クスノキ)と柳を接合して作った木彫りの人形およびそれに宿る神霊。ほかに柳から作った説、商陸から作った説がある。商陸が訛って樟柳になった]と呼ばれる。木偶で未知の事を予測するのは漢代に始まった。

伝説によれば漢代、李子長[明代の画家 14361526]は政務を担当することになり、囚人の気持ちを理解したいと思った。そこでアオギリ(青桐)の木から囚人の人形を作った。そして地面に穴を掘り、アシで作った棺桶を置き、木の囚人を中に横たえた。もし囚人の罪がその通りなら(有罪なら)、木の囚人は動かず、冤罪であるなら、木の囚人は動いて出ていく。樟柳神を用いる法術は漢代から延々と受け継がれてきた伝統である。採生魂法術の影響も受けて確立された新しい予測法といえる。

 樟柳神を作る手順と採生妖術、あるいは生きている人を呪い殺す、または鬼魂を招いて霊魂を偶像の表面に注ぎ込むのは近いものがある。明人陸粲[りくさん 14941552]の『説聴』上巻に言う、宦官の弟子文奎(ぶんけい)は、俗に樟柳神と呼ばれるひとりの術士と会った。鬼を使役することができたからである。

文奎は学問を心得た人間なので、術士はまず彼に四旬(四十日)の間禁欲させた。そのあと野外に連れ出し、施食会を開き、鬼を招いた。すると興味深そうな鬼が一匹、文公子についてこようとしたので、術士はさっそく小さな木偶(でく)をとり出し、鬼の姓名及び生年月日を書き記したものを着衣の襟の間に縫い込んだ。これは招いた鬼魂が木偶に附着した一例である。清人銭詠『履園叢話』二十四巻にはつぎのように書かれる。

今、呉越の間にはいわゆる沿街算命者(占い師)がいて、毎度新生児の占い(生辰八字)に用いられ、呪って人を斃すこともできるのが樟柳神である。星卜家(星相・人相占い家および八卦占い家)の売り買いの争いは激しく、これ(樟柳神)を得て(生辰八字を)占ってみたところ、霊験あらたかだった。しかし過去のことを変えることはできず、未来のことを当てることもできない。

乾隆甲辰の年の七月、隣人が荒野の中を進んでいるときに子供の声が聞こえた。「どうするの」と言っているようだった。耳を傾けるとやはり「どうするの」と言っているように聞こえた。草の中に小さな木偶が落ちていた。星卜家(占い師)が言ういわゆる樟柳神だった。兄の柏渓がこれを見つけて家に持ち帰って遊んだ。木偶を家に置いて二、三日たつと、子供たちは不安になり、熱を出して寒気がしたり、泣きやまなかったりした。

君子(高位の人)は言う、「これは不吉なものである」と。すぐにこれを(もとあった場所に)戻し、前のように落ち着いた。銭詠は樟柳神が未来を予知するとは信じていなかった。ただそれでも過去の命運を評価することはできた。彼は声を出すことはできたので、子供を発病させたり泣かせたりすることはできた。

清人宣鼎[18321880『夜雨秋灯録』は、樟柳神のみかけはたいへん風変わりで、動きは霊妙で面白く、愚昧な官吏とは対照的だと描いている。催租隷(租税を取り立てる役人)の張大眼は税を納めるために県城へ行く途中、ある家の豆花棚に木彫りの赤ん坊を見つけた。この木人は長さ二寸(6・7センチ)程度で、首には頭髪がかかっていた。顔はおしろいで白く、唇は赤かった。目と眉はきりりとしていた。歌と踊りがうまく、神のように予言をすることができた[樟柳神は張大眼が三十回ムチ打たれるが、千銅銭得られると予言する]。

張大眼は[笠の中に木偶を入れて]県城に入るときに、(盗賊と間違われて)県令に捕えられ、ひどく笞(ムチ)打たれた[三十回打たれた]。[誤解がとけ、謝罪した県令が張大眼に千銅銭払ったあと]木偶は県令のものになる。

これ以降、県官(県長官)は事件を審理するとき(笠のかわりに)帽子の中に木人を置くようになった。するとはたせるかな、ささいなことまで明瞭になり、善悪を間違えることはなくなった。満城[清代には21座の満城があった]の人はみなそれを神明と呼んだ。帽子の中に樟柳神があることを知らなかったのである。