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 偶人(人形)を置く呪法は偶像祝詛術に由来する。ただし職人の偶像使用伝統的巫蠱術と、明清時代の偶像を駆使する呪法とは区別される。職人は家の中や器物の中に偶人を隠した。それは普通の家や器物を凶宅・凶物に変え、凶宅・凶物を通して居住者・使用者に影響を与えるためである。この種の偶人は攻撃対象の代わりとなるものではないが、邪気を拡散し、生活環境を毒するためのいわば人工的な鬼魅といえる。職人が使用する木偶の性質と作用は採生妖術の中の人を脅し、人を害する偶像と比較的似ている。違いは、攻撃対象の住まいと器物のなかに置いて固定させるのが有効であることを職人が認識しなければならないことである。

 五代の孫光憲『北夢瑣言』巻九にはつぎの話がある。唐僖宗文徳年間に、張某という少年が官吏の陸某家に行き来していたが、そこにいたひとりの美女に惑わされ、病を得てしまった。道士呉守は道教の霊符(護符)を少年に与えたが、効果はなかなか現れなかった。のちに人々は空き部屋の柱の洞(うろ)の中に女俑(女の人形)を発見した。その女俑の背中に「紅英」の二文字が書かれていた。女俑を焼くと、美女は消えた。怪しげな祟りも消えたのである。柱の洞に女俑を置いたのは職人に違いなかった。この話が意味するのは、工匠(職人)の魘魅術が唐代にはすでに出現していたことである。

 宋人洪邁は、工匠魘魅術は当時蘇州、常州一体で相当流行していたと記述している。『夷堅丙志』巻十の「常熟圬者」(常熟県のコテを塗る者)の条に「呉人の俗では、建物の屋根の瓦を覆うとき、ひどく暑くても、子弟を登らせて直に監視させた」と記されている。というのも職人(泥瓦匠)が瓦の下に厭勝物を置くのを恐れたからである。洪邁は例を挙げる。山東人呉温彦は客として平江の常熟県にいた。南方の風俗を知らないため、家を建てるとき、警戒を怠ったため、職人に鎮物(厭勝物)を入れられてしまった。新居に移り住んだとき、「毎晩かならず夢の中に白衣を着た七人が屋根裏から出てきた。するとまもなくして病にかかり、起きられなくなってしまった。その子供は物の怪の仕業ではないかと疑い、使用人に命じて屋根の上に登らせた。瓦をはがしていくと、その中に七枚の紙人が見つかった。職人(圬人)が不満を持ち、厭勝術を用いて主人に禍をもたらそうとしたのである。郡守の王顕道はこれを聞き、工匠(職人)をみな捕まえて獄に入れた。のちに背を鞭打ち、遠州に放逐した」。

 この記述から明らかなのは、唐代以降、工匠厭勝術など巫術活動がさかんになり、某地区では人はみなこのことを学び、熟知していた。