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 木工(大工)の一部は習慣で草人を用いて災禍をつくる。焦循は自らの体験を記している。嘉慶庚申年(1800年)、焦は息子の婚儀を執り行ったさい、江南出身の木工謝某に木製の寝台を作らせた。しかし数年のうちに二人の孫が相継いで死亡してしまう。

「ある日床が突然割れ、なかから二つの草人(草人形)が見つかった。それらは転がって互いに背を向けて倒れていた。これの祟りか、もともと小口(子供の死者)はいなかったが、これを焼いたのち、小口が出るようになった」。

子供の夭折の原因が草人の祟りであることを焦循は認識していた。木工が草人を置いたのは事実である。その他魘魅の事例はどれも同様に理解された。

 工匠(職人)はつねに絵を用いて厭鎮を実施する。清東軒主人は言う、崑山の李左君は工匠に(しょうもん)の修理を依頼した。しかし粗末な食事でもてなされた工匠はひそかに厭鎮の物を置いた。のちに曹某がこの家に引っ越してきたところ、家族がみな病気がちになった。

康煕三十五年(1697年)偶然門が倒壊したとき、家族が墻(へい)の中に木の切れ端[木人だろう]を見つけた。それには「緑衣判官を描く。そばに鉄索(くさり)を持つ小鬼あり。跪き、手のひらに妙訣という文字が書かれている。字ははなはだ清楚な楷書で書かれている」。この絵をそぎ落とすと、平安が戻ってきた。

似た描写はこのほかにもたくさんある。蔡某家の人は三代つづけて吐血して死んだ。ある日蔡の母が何斗もの血を吐いた。劉という法術に通暁した親戚がよく観察して、裏庭の建物の下に妖気なるものが埋められていると主張した。「ここを掘ると竹片があり、絵に人が描かれていた。その人の口から赤い点が多数滴り落ちていた。工匠人が厭鎮をしたと思われる」。