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 明清時代の工匠が使用した魘鎮雑物には以下の何種類かがある。

<孝巾> 

『説郛(せつふ)』に引く『西塾雑記』によると、明代、「蘇州皐橋(こうきょう)韓氏は建築・造園に従事し、四十年以上喪服を着てばかりだった。風雨によって塀が崩れたとき、壁の中から孝巾(頭巾の一種)が見つかった。磚(せん レンガ)の弁(帽子)というわけである。すなわち孝を戴く磚(せん)である。孝巾とはいわゆる孝帽子のことだ。磚は専の同音。孝を戴く磚は孝を戴く専門に通じる。工匠が障壁の中に孝を戴く磚(レンガ)を発見したことから、韓氏の家族は四十年以上累々と死者が出続けたのはこれが原因であると確信した。

 

<船傘模型> 

明代の一部の瓦職人は合背(合竜)[橋や堤防などの建設を両端から始め、最後、中間点で完成するとき縫合する地点のこと]に土人(土人形)や船、傘などを入れた。船は穿と、傘は散と読める。この呪法によって雇い主を呪詛すると、家屋には洞穿(壁や門の穴)が開き、家屋は四散する。

 

<食器食物> 

高濂は言う、一部の工匠は障壁のなかに蓮華や箸を入れる。呪文をかける。「少し住めば、たちまちその家は壊れる!」。門の敷居を作るとき、階段の下に蓮の葉で包んだごはんを置く。また蓮の葉の上に箸で十字を書く。家の所有者を呪詛し、喉の詰まりや嘔吐の病を起こさせた。

清代末期の兪樾(ゆえつ)は、湖北人が首を吊ることを、油麺を食べると称す、と記している。油麺は小麦粉の中に油を入れて作る長麺のこと。咸寧(かんねい)の章某が家を建てるとき、待遇が過酷であったため、工匠は憤怒し、恨みを抱いた。あるとき油麺を食べ、その食べ残りを門の敷居の下に埋めた。すると、しばらくして章の妻が首つり自殺した。章某はしばしば子供を連れて人に言った。「おれはどこで首を吊ったらいいんだろうか」。家族は陰陽先生の指示を仰いで、門の敷居の下を掘ると、わずかだが油麺が出てきた。章某の病気はそれ以来好転した。

 

<灯檠(とうけい 燭台)> 

 紀昀はつぎのように描写する。堂兄(父方のいとこ)紀旭昇家の三代はみな動悸や不眠症で死んだ。旭昇の子汝允もまたおなじ疾患で死んだ。のちにある工匠が建物の隅に異物を発見する。レンガの隙間に古い灯が置いてあったのだ。工匠は言った。「この器物は人を眠らせない。泥匠(建築職人)の魘術だ」

 

<針とお金> 

 上述の焦循書によると、焦循の叔父と木工(大工)の殷某はよしみがあり、家を建てるとき、「大事に扱ってもらい、食事もふるまってくれてので、(木工は)厭を防いだ」。ただし最終的に殷某は魘物を置いた。七年後、焦氏が物故した。それから六年後、焦家は家を壊すことにした。屋根の垂木を壊すとき、「瓶が一本出てきた。閩の中に針一本と雍正銭(銭貨)が入っていた」。針を隠すのは、人を刺すという意味である。銭を入れるのは、厭勝銭法術のバリエーションである。

 

<紙符> 

 『聴雨軒筆記』に記す。いつも賢くて敏捷な邱蒼佩(きゅうそうはい)は田舎に引っ越したあと、「だんだん落ち込んでいって、いびきをかいて眠るだけになった」。弟子の王学は、これは工匠の魘魅のせいだろうと考えた。のちに明鏡で室内をあまねく照らし、中門の上に紙片を発見した。紙の真ん中には「心」の一文字が書かれていた。まわりには濃い墨が塗られ、月に雲がかかっているかのようだった。「もとあった場所で髪を焼くと、邱翁の病気はよくなり、魘を作った工匠のあたりに上空から黒雲が降りてきて、工匠を覆った。すると発狂し、終生癒えることはなかった。

 

<木竜> 

 王用臣『斯陶説林』が引用する『便民図簒』に言う、蘇州のある富裕の翁が工匠に造船を依頼した。処遇の仕方がよくないという意識もあり、翁は工匠が不満を持ち、悪巧みをするのではないかと恐れた。それで作業が完了する夜、翁は船尾に隠れて様子を探った。工匠は斧で船体を叩きながら呪文を唱えた。

「木竜よ、木竜。わが祝詞(ことば)を聞いてくれ。最初の年、船が走る、利益は倍になる。つぎの年、利益は十分の三になる。三年目、人は財をすべて失う」。

 このあとの二年の経済状況はほぼ祝詞のとおりだった。三年目、翁はあえてこの船を用いなかった。

「ある日、その舟を壊すと、長さ一尺ばかりの木竜が出てきたので、油を沸かし、これを焼いた。臨家にいた工匠は病気になり、目論見が失敗に終わったことを知り、命乞いをした。しかしふたたび木竜を焼くと、工匠はばたりと地面に倒れ、絶命した。