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 秦代以前の人々が示した蠱虫の多くは自然に発生した神秘的な毒虫だった。秦徳公二年(前676年)、秦人は「狗でもって蠱を御して」伏祭をとりおこなった。[伏祭は伏日におこなわれる祭礼。伏日は七月中旬から八月中旬の三伏のうちの一日] 

 『周礼』中、庶氏は「毒蠱を掌除する」官員と描かれる。この蠱駆除活動の対象となっているのは自然発生する毒虫で、人工的に飼育している蠱とは異なっている。

 蠱を作り、人を害する蠱術は、毒蠱の迷信が長期にわたって発展した基礎の上に形成された。『漢律』中の「賊律」に言う、「人に蠱(術)をかけた者も、そそのかして(蠱術を)かけさせた者も、棄市(市で衆人のもと首を斬られること)の刑に処せられる」と。鄭玄はこの条を引用して『周礼』「庶氏」の「掌除毒蠱」を説明している。「賊律」のもとになったのは、李(りき)の『法経』中の「賊法」である。これからわかることは、戦国時代の中原にはすでに蠱術を使う人がいて、蠱を作り人を害する方法が伝授されていたということである。

 魏晋以来、南方の地域が開発され、民族融和が進むにしたがい、蠱術と蠱疾に関する描写が増えていった。蠱術は民間にひそかに流布するだけでなく、社会の上層部にも入り、宮廷の事変を起こすに至った。蠱術は中国巫術体系の大きな流れとなり、古代の医学、法律、民俗に大きな影響を与えた。

 伝説中の蠱毒製造の一般的な方法は、一つの器の中に劇毒を持つ蛇やサソリ、トカゲなどを入れて、互いに食べさせたり、殺し合いをさせたりして、最後に生き残った毒虫を蠱とするものである。一部の造蠱者は五月五日に毒虫を集めるのがいいと強調する。これは五月五日が毒気の最盛期とする伝統的観念である。虫を戦わせる法以外にも、特殊な毒蠱があり、また特殊な製造法がある。

 造蠱害人(蠱を作って人を害する)法は、表面的には非巫術的な毒の犯罪のように見えるが、そういうわけではない。蠱術はたしかに蠱虫・蠱薬を食べ物や衣類に投じるような、原始的低級の巫術である。民間信仰においては、蠱は飛び回ることができ、変幻自在に姿を変え、光を発し、鬼怪のように見えるが、跡を残さず、神秘的で曖昧模糊としている。造蠱者は呪術を用いて蠱虫を飛ばして酒や食べ物に入れ、(蠱術の)対象者はそれを体に入れ、病気になり、死んでしまう。

 『捜神記』巻十二に言う、「蠱は一種の怪物である。鬼のような姿で、妖しい形はさまざまな種類に変化する。それは犬、豚、虫、蛇のように見える。その人(造蠱者)もその形を知らない。さまざまな人の中に放たれ、それに当たった人はみな死ぬ」と。造蠱者はこのような妖蠱を駆使して人を害する。明清代の呪術師は生きた魂を偶像に込め、人を害したが、実質これらはおなじことである。



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