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 古代の蠱術の種類は多いが、そのなかで比較的影響力の大きい者を以下に列挙しよう。


<蛇蠱> 

 干宝が言う「代々蠱をなしてきた」の廖氏が飼ってきたのは蛇蠱だった。のちに廖家に嫁入りした女性は内情を知らなかった。「たまたま家人がみな出払い、彼女ひとりが留守番をすることになった。家の中に大きな甕(かめ)があった。なかを覗いてみると大蛇がいた。彼女は熱湯をかけてそれを殺した。家人が戻ってくると、彼女は起きたできごとについて説明した。それを聞いて家人はおおいにあわてた」。しばらくすると廖家の人はみな伝染病にかかってしまい、みな死んでしまった。魘鎮物(厭勝物)と呪術師の匠の交感とおなじで、魏晋人は蠱と蠱主の運命の間には緊密な関係があると信じていた。蛇蠱もその例外ではなかった。

 隋代の医術家は中蠱[蠱の被害にあっていること]症状の相当細かいところまで分析している。彼らが言うには、蛇蠱患者の顔面が青黄色になり、腹の中が熱を持ちもだえるほど苦しくなり、舌の根が腫れて固くなり、ことばが出なくなるなどの症状を呈した。唐代の医術家が言うには、中蠱者が死ぬとき、蠱虫は「みな九つの孔から、あるいは脇の下の肉から出ていく」という。こうしたことから推理するに、蛇蠱患者の体内にはかならず蛇の活動があったはずで、患者が死んだとき蛇は体内から這い出して飛び立ったはずである。古代人はまちがいなくこのように理解していただろう。

 五代の王仁裕の『玉堂閑話』には「釘鉸匠」が蛇蠱患者の口から蛇をつまみだした話が書かれている。また自称「蠱毒を出すことができる」医者についても書いている。彼は蛇蠱がとりついた女性の口から「長さ五から七寸の蛇」[15~20センチ]をとらえた。[訳注:私はミャンマーでこのような呪術師に会ったことがある。彼は患者の喉にピンセットを入れ、タール状のものをつまみだし、それが病気を起こしていたと主張した。昔の中国ならそれを蠱と呼んだだろう] 

 この蠱治療法は劇のようなところがあるが、蛇蠱患者の体内に生きた蛇がいると信じられている。しかし実際は存在するという観念があるのだ。