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<犬蠱> 

 『捜神記』巻十二に、陽の趙寿は犬蠱を飼っていた。陳趙寿を見に行くと、大型の黄犬の群れが六つか七つ、狂ったように吠え立てて真正面から迎えた。干宝の叔母は趙寿の妻と一緒に食事をしたあと、家に戻ると吐血が止まらなくなった。桔梗湯を飲むとようやく回復した。この種の犬蠱は狂犬病ではなく、犬の形をした蠱、あるいは蠱が変成して狂犬になったと考えられる。清光緒年間に刊行された署名然犀道人の『駆蠱然犀録』は述べる。「近頃毒蠱がはやっている。犬(狂犬)は昔と比べると多い」と。狂犬はどうやら毒蠱の一種らしい。晋人の犬蠱に対する見方はおなじとはかぎらない。


 <猫鬼> 

 隋代の医術家いわく、「猫鬼とは狸など野生の動物の精である。変じて鬼(水怪)となり、人にくっつく。人畜に仕えるのは、蠱が仕えるのとおなじで、毒でもって人を害する。その病状は、心臓や腹部に激しい痛みを感じ、内臓を食べられ、血のかたまりを吐いて、死ぬ」。猫鬼は虫の類ではないけれど、飼い方と性能は毒蠱とおなじである。

 隋文帝の時、独孤陀(どっこだ)が猫鬼を使って財を移して人を害する一案が発生した。独孤陀は独孤皇后の異母弟で、妻楊氏は楊素将軍の異母妹だった。独孤陀の母と外祖母高氏は猫鬼を作り出し飼っていた。独孤陀はその影響を受け、「性(さが)、左道を好む」と言われた。この案件が発覚する前、ある人が高氏は猫鬼を用いて人を殺している、また猫鬼はすでに独孤陀家に入り込んでいるという情報が寄せられたが、隋文帝は信じなかった。のちに独孤皇后と楊素の妻が同時に発病したので、医師らが診たところ、彼女らは猫鬼の疾にかかっていることがわかった。文帝は寄せられた情報のことを思い出し、独孤陀夫婦と皇后、楊素がひとりの母親から生まれたのではないことに思い至り、猫鬼が独孤陀から来たのではないかと疑うようになった。

調査が一段落ついたところで、独孤陀の婢女(はしため)の徐阿尼(じょあに)が真相を供述した。徐阿尼は独孤陀の母の家からやってきたのだが、いつも猫鬼を作っていた。「その猫鬼は人を殺し、死人の家の財物に潜り込み、畜猫鬼家に移動した」という。

あるとき独孤陀は酒を飲みたいと思い、妻の声でお金がないことを訴えると、独孤陀は徐阿尼に言った。「猫鬼に命じて越公(楊素)家に行かせ、お金を調達させなさい」と。阿尼は呪文を唱えて呪術を施すと、数日後、猫鬼は楊素家に飛び込んだ。

開皇十一年(591年)、独孤陀は阿尼に命じた。「猫鬼に皇后のところへ行かせよ。そして多くのものをわれのものとせよ」と。この阿尼によって猫鬼は宮廷内に引き入れられたのである。

また楊遠という者がいて、かつて徐阿尼が猫鬼を呼ぶところを目撃している。夜間、阿尼は香粥を置き、盆を匙で叩きながら呼んだ。「猫女よ、宮中のどこにいようとも、おいで」。しばらくたって徐阿尼の顔が青くなり、何かを引っ張っているように見えた。口では「猫鬼はすでにやってきた」と唱えていた。この案件は詳しく調べられ、文帝は独孤陀を平民に落とし、楊氏を罰して尼姑(あま)とした。これが開皇十八年(598年)のことである。

事前にある人が告訴して言うには、母がある人の猫鬼によって殺されたと。隋文帝は、これは妖術であり、実際に起きたことではないと認識し、怒って訴えられた人を捕まえた。独孤陀の案件が終了すると、文帝は一連のできごとは猫鬼妖術によって起こされたことと認識した。同じ年の四月、「猫鬼を飼うもの、蠱独、厭媚、野道をなすものは四裔[幽州、崇山、三危、羽山という四つの遠い地]に投じるべし」と書かれた詔書を頒布した。

 清代の学者は猫鬼病が記載されている例として「思うに、これがあったのは周、斉の時のみ」で、猫鬼は「南北朝の時の鬼病で、唐代以降は聞くことがなかった」という。この推量はおそらくそのとおりだろう。唐代の『千金要方』『千金翼方』『外台秘要』などの医学書に猫鬼病の治療法が記載されているが、唐代には参考用の文献は存在していたのだろう。