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宋代から始まったのだが、畜蠱者(蠱を飼う者)は送蠱(蠱を送り届ける)の法をよく用いるようになった。蠱主は蠱と財物をいっしょに道路上に放置した。拾った者は望んでもいないのに畜蠱者の仲間入りをすることになった。
送蠱活動には送蛤蟆蠱も含まれていた。清人はこれについてきわめて詳しく描写している。「閩(びん)に虾蟆蠱があった。金蚕蠱とほぼ同じである。これに仕える者はつねに富を得ていた。それが来ると、人は道路のそばにたくさんの金帛を見た。それは送蠱だったのである。財をむさぼる者は帰ることによって蠱につかえることになった。蠱もまた従ったのである」。
送蠱者は小さな本を贈った。その本には事蠱の法(蠱につかえる法)と行蠱の術(蠱術)について紹介されていた。養蠱者(蠱を養う者)の家はよく掃除して、清潔にしなければならず、外来の宗教は信じず、ただ蠱神のみを信奉した。
「金の日になるたび、蠱神は白鳥矢のごとき糞をした。それを毒として用いて人を害した。庚辛申酉の日以外は蠱術を実践することはなかった。その毒(蠱毒)に当たった者はまずくしゃみをした。すると虫が百節五臓に入った」。
大晦日が来るたび、事蠱の家(蠱に仕える家)は鶏を生贄として蠱神を祀り、蠱主の夫婦ははだかで蠱神に向か会って礼拝した。彼らは中蠱者(蠱毒に当たった者)の数や身分を根拠として、蠱神への勘定を清算した。
「蠱の値段は、役人が銀五銭、秀才銀四両、官長銀五十両に相当する。蠱に当たった者の数が多ければ利益が大きく、少なければ小さい」。
もし蠱主が蠱を飼うことに嫌気がさしたなら、二倍の財物を蠱に送り届ければ、貪昧なる者はこれを信奉することをやめることができた。