(8)
<金蚕蠱>
伝説によれば金蚕蠱の形状は蚕そのもので、体全体が金色に輝いている。唐代の人は、金蚕蠱は「指輪のように曲がることができ、蚕が葉を食べるように緋色の絹の錦を食べる」。ゆえに食錦虫とも呼ばれる。
金蚕蠱術は宋代にもっとも流行した。宋人蔡絛は言う、「金蚕毒は蜀中にはじまって、湖(湖北湖南)広(広西)閩(福建)粤(広東)に浸透していった。この地方に行くのに「金蚕に嫁ぐ」という言い方があった。宋人の小説にはつぎのような話が書かれている。
鄒閬(すうろう)という者が数十個の銀器が入った小さな竹かごを拾った。しばらく待っても誰も取りに来ないので、そのかごを持って家に帰り、妻に言った。「原因がないのにこれがここにあったということは、上天からの贈り物ではなかろうか」。話し声が急にやんだ。腿の上で何かがうごめいていたからである。よく見るとそれは金蚕だった。いろいろと考えをめぐらしたが、解決しなかった。座っても寝ても不安だった。友人は彼にこれは金蚕蠱である、蠱を飼えばたやすく金持ちになれるぞ、と言った。鄒閬はしかし良心にそむくことをしたくなかった。拾った物の何倍もの価値のあるものを得ることができたが、手放してしまった。それで金蚕の嫁になるほどの財力はなかった。このため鄒閬箱の話をこれ以上したくなかったので、遺言を書いて金蚕を飲み込んでしまった。意外にも彼はこれで死ぬことはなく、むしろ長寿を享受することができた。
金蚕蠱術は宋代やそのあとの時代の医学書にも反映している。南宋法医学家宋慈曽は、検死のときどうやって金蚕蠱毒を識別するか示した。彼が言うには、金蚕蠱によって死んだ場合、「死体はやせ衰え、全身が黄白色になり、眼窩がくぼみ、歯が露出し、上下とも唇が縮み、腹部もくぼむ。銀釵(ぎんさい)検査によって濃い黄色になり、皂角(さいかち)を用いても洗い落とせない」。
また別の説でも、身体が膨張し、皮膚の肉がやけどを負ったかのように気泡が出て化膿し、舌、唇、鼻が破裂する。「これは金蚕蠱毒の症状である」と述べられている。巫術によって人命が奪われたと認定されれば、人々は巫術の被害者の遺体からさまざまな証拠を探し出すことができる。法医学をもってしても、それからのがれることはできない。