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<蜈蚣(ムカデ)蠱>
洪邁『夷堅志』巻二十三「黄谷蠱毒」の条につぎのように記されている。「福建諸州の多くの人は蠱毒を持っている。なかでも福州の古田、長渓には多い。四つの種類の蠱毒がある。それは蛇蠱、金蚕蠱、蜈蚣蠱、蛤蟆蠱である。みなよく変化し、姿を隠していて、めったに現れない」。これによるとこれら蠱虫には雌雄があり、定期的に交わるという。交合する日、すなわち蠱神が降臨するとき、畜蠱の家(蠱を飼う家)は迎える準備をしなければならなかった。お盆とそれに湛える水はかならず置かなければならなかった。雌雄の蠱神は自ら飛んできて水中で交合し、あらたな毒が生まれた。蠱主は針の目で水面に浮かんだ蠱毒を取った。それは一日のうちにかならず人身に施す必要があった。
「一夜を過ごすと、(蠱は)生きていけない」と言われる。これにより、もし友人が訪ねてきても、蠱主は情をかけて蠱術を施す対象を選んではいけない。実際来客がなければ「すなわち家の中のひとりが請け負うことになる」。蠱虫が人の腹の中で成長すると、中蠱者(蠱毒の患者)はすさまじい苦痛に襲われ、最後には悲惨な死を遂げることになる。「臨終の日、さまざまな形の数百の虫が目、耳、鼻、口から湧き出してくる」。
中蠱者は死んだあと、霊魂は蠱神のところに行って拘束されるので、人として転生することはない。ただ蠱主のために尽くすだけになる。それは「虎の食倀鬼同然」である。「死者の屍を火葬にしても、心肺だけは残るという。それはさながら蜂の巣のようである」。以上は洪邁が漳州の蠱毒の事例に関して信仰者もよる語り口で描写したものである。蜈蚣蠱は蠱毒の一種だが、ほかの蠱毒も似たようなものと考えられる。
注目に値するのは、洪邁が記述するように、本章第5節(偶像呪詛下)の王万里が取り上げた生妖案と蜈蚣蠱案件がよく似ていることである。この案件は宋人の蠱術の迷信を反映している。ここで煩瑣になるのを恐れず細かく見ていこう。
宋孝宗淳煕二年(1175年)、古田の人、林紹先の母黃氏が中毒になり、命の危険にさらされた。親族のなかには伝統的な方法で病状を探ることを求める者があった。「もし中蠱であるなら(蠱に毒されたなら)床の簀(すのこ)を焼いてこれを照らせば、かならず自ら話すだろう」。この方法を実際やってみると、林の母は病気の原因について話し始めた。
某年某月某日、黃谷の妻頼氏はある物を通じて私に蠱術をかけてきた。黃谷夫婦は蠱神を信仰していて、現在も彼らの家の戸棚の中にいる。林紹先はそれを聞いたあと、保甲[保甲制度は宋代の戸籍管理システム]の頭目にそれぞれ千人集めて黃家の捜査に当たるよう命じた。その結果黃家の棚にいくつかの証拠を捜し出した。
それは銀飾の錠、五色の糸の付いたポアポエ(環珓、擲珓)、七孔の小箱、片面ずつ「五逆」「五順」と書かれた将棋の駒、合計百本の針が入った袋(十一本は針穴なし)である。官府は黃谷を捕え、厳しく尋問した。ただし刑を執行するとき、黃谷はいつも死んだふりをして、執行者が手を緩めるとすぐに目を覚ました。まるで暗闇の中で鬼が助け合っているかのようだった。
のちにこの案件は官府に報告されたが、審理を担当した主簿[文書を扱う官吏]の余靖は黃谷をどうすることもできなかった。余靖は憤懣やるかたなく、また黃谷が運よく無罪になった場合のことを恐れ、怒りに任せて鋭利な刃物で黃谷の首を斬ってしまった。そして黃谷の首級を官府に差し出し、自ら処分を願い出た。
官府の長官はこの状況を朝廷に報告すると、朝廷は提点刑獄司の謝師稷に特命を与え、調査させた。謝師稷とその他の官員が黃谷の未亡人である頼氏に問いただしていたとき、家の中から何匹かの大ムカデが這い出てきた。謝師稷は言った。「これで証明された」。頼氏は連行され、尋問はさらにつづいた。三日後頼氏は罪を認め、死刑に処せられた。