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<虫蠱> 

 虫蠱とは、清代の一定の地区で蛇蠱以外の比較的小さくて数の多い毒虫の蠱の総称である。道光年間、江西興国県に虫蠱事件が同時に発生した。それは近隣の県にも動揺を与えた。この事件の犯人たちはつぎのように供述している。

「蠱には三種ある。瓜、虫、蛇の三つである。瓜蠱は下が瓜の形をしていて、ナツメや栗ほどの大きさ。蛇蠱は蛇の形をしたもの。回虫を思わせる。虫蠱は小さい蛇のようで、数が多いものをいう」。


 <疳蠱> 

 清代『験方新編』巻十五にいう、「匪賊の人たちは、疳蠱を放卵、放疳、放蜂などとも呼ぶ。この習俗は両粤(広東と広西)に多く見られる。端午の日、ムカデと小蛇、蟻、蝉、ミミズ、ゲジゲジ、頭髪などをいっしょにすりつぶす。その人はつねに小さな五瘟神像を彫っていて、家の中あるいは棚にそれを祀り、毒薬を神前に置いた。蛇蠱などの粉末をごはんやおかず、酒の中に入れ、人が食べたり飲んだりする。あるいは路上に粉末を撒くと、踏みつけた人の体内に入り、内臓の表面にこびりつく……」。

こうした虫蠱、疳蠱は跡をとどめない伝説中の猫鬼、金蚕蠱とは似ておらず、毒薬と巫術の混合であることがわかる。


 <飛蠱> 

 飛蠱とは、飛行できる毒蠱のことである。唐人張(ちょうさく)はかつてこう言った。江嶺(長江と南嶺)の間には有声無形(鳴き声は聞こえるが姿は見えない)の飛蠱がいて、自ら生まれた(人が作ったものではない)蠱である。蠱術で使用する蠱の大半が飛蠱だという。

明人の露(こうろ)は言う、蛇蠱、(トカゲ)蠱、蜣螂(クソムシ)蠱はひとたび形成されると「その後夜に外に出て、彗星のように光りながら飛んでいく。これを飛蠱と呼ぶ。光の積み重ねから影が生まれる。さながら人が生きているかのよう。それは挑生(生に挑む)と呼ばれる。影の積み重ねから形が生まれる。人と交わることができ、金蚕と呼ばれる。氏は毒蠱に高次の、あるいは低次の変幻自在の形を与える。飛行するという点からいえば、挑生も金蚕も飛蠱である。

清代の東軒主人はつぎのように書く。沈心涯は浙江の開化に行って官吏となった。ある夜、堂の中に坐していると、空中に彗星のような流れる光を見た。現地の風俗をよく知っていた彼はこう言った。

「これは飛蠱というものだろう。蛇蠱かもしれない。蠱を飼う家は蠱神を信仰し、富を得る。ただし蠱家の妻は蛇とかならず姦淫している。蛇は毎晩外に出て遊ぶ。彗星のごとく光り、人の少ないところでたまたま出くわすと、人は脳を食べられてしまう」。その形から蛇蠱と呼ばれ、性能から飛蠱と呼ばれる。飛蠱とその他の蠱を合わせて飛蠱という総称で呼ばれる。

 古代の医学書を読むと、沙射人影を含む射工(、短狐とも)に関する記述がととても多いことに気づく。医学書の多くはそれらを蠱毒に分類する。『諸病源候論』巻二十五、『本草綱目』巻四十二にはこれらについて詳細に描かれている。それによると射工は鬼怪の性質があるものの、人力でない力によって蠱が飼われ、コントロールされていることがわかる。つまり巫術的性格の蠱とはおなじでなく、伝説の鬼と化した自然発生的な毒虫である。

 古代の各地の蠱術の名称は定まっていない。たとえば清代の広東香山一帯では、蠱術は鬼薬や挑生と呼ばれた。このような分析され、影響が比較的大きな蠱種を除くと、じつに多くの蠱の名前がわかっているが、内容不詳のものが多い。たとえば『本草綱目』が示す螞蝗(ヒル)蠱、草蠱、明人張腫[に腫]『渾然子』が示す鼠蠱、鴆(ちん)蠱などがそうだ。古代には百蠱と呼ばれることがあった。毒蠱と蠱術を分類し、すべてを挙げるのはむつかしいのである。