第4章 08 蠱術(下) その解き方
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蠱術を使って「謀財害命」(財物を略奪し命を害する)するという犯罪活動が出現して以降、国家はそれを厳しく取り締まってきた。『漢律』中に「蠱を実行した者、あるいは命じた者は棄市(市での処刑)に処せられる」という条文が載っている。
北魏の法では「蠱毒を成した者は男女とも斬刑に処せられ、その家を焼かれる」となっている。
隋文帝は畜造猫鬼を命じ、蠱で人を害した者は蛮族の荒廃した地に流刑になった。
唐・宋代から明・清代にかけての法律では毒蠱を罪は十悪不赦の大罪の一つとされた。畜蠱を成す者、あるいは畜蠱者をそそのかした者は死刑に処せられ、家族は流刑になった。財産は官庁に没収された。犯行を知りながら見逃していた官吏も罪に問われた。
宋太祖乾徳二年(964年)朝廷は永州(湖南省)の各県の三百以上の畜蠱をおこなう者を誰も住んでいない僻地に流刑させた。彼らが故郷に戻ってくることは禁止された。
宋仁宗福建の刑事事件の報告を受けているとき、この地方に蠱毒事件が多いことに気が付いた。ついに慶暦八年(1048年)各種の蠱を治す方法を『慶暦善治方』にまとめて公布した。