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 蠱を飼い、人を害するのは特殊な犯罪活動であり、官符はこれらの人々を斬首、絞首、追放などの刑に処するほか、特殊な方式で罰することがあった。北魏の法律のなかで蠱主の居室を焼き払うのは徹底的に毒素を清掃で除去する規定という意味があった。この種の処罰は一種の宗教巫術だった。明、清人の伝説では、蠱を飼う人々の大多数が特殊な能力を持っていて、一般的な刑罰で彼らに制裁を加えても、こらえることができるので、いかなる損傷を与えることができなかった。

 『述異記』が言うには、福建尤渓県で逮捕された畜蠱者(蠱を飼う者)は悪びれることなく犯罪行為を自白した。官吏は棍棒で彼をたたき、板で百回ぶったが、痛がる様子は見えなかった。のちに彼は監獄からミステリアスに逃走し、官吏は家まで行って捕まえたがすぐに逃げ出した。こうした「経験」から官吏たちは巫師に「治蠱」のやりかたを教えてもらった。しかし巫師の懲罰はいっそう残忍なものだった。

 明人の露は言った。壮族(チュアン族)地区の「官」提陀潜は当地に蠱術が流行していることを知り、巫師に呪術を使って鎮圧するよう命じた。蠱をおこなう女たちを捕まえ、体を土に埋め、頭だけ露出させた。そしてロウソクの蝋(ろう)を頭に垂らし、火をつけて燃やした。彼らは蠱によって死んだ死者の魂を招き、蠱を飼う者にたしかな死をもたらすことができる。魂がまだ至っていないと認識すれば、壮族(チュアン族)の女性で代わりになる者を探し出し、蠱を飼う者を痛罵させた。罪を犯した者は徹底的に罰せられる必要があった。 

 官府が蠱術活動に対して打撃を加えることができるのは、犯罪が事実として認定されたあとのことである。しかもただ脅すことができるだけで、蠱を解くことはできず、蠱の被害を受けた人の生命を取り戻すことはできなかった。

蠱術がさかんになるにしたがい、民間医師と巫覡(ふげき)は治療法を模索し、だんだんと蠱術を解く巫術を発見していった。これは人を害する役鬼を解毒するという特殊な巫術である。蠱を治す巫術はさらに医学的色彩を帯びていた。蠱を治すとき、しばしばそれが純粋な巫術なのか、純粋な医術なのかを判別するのがむつかしかった。というのも大半はその両方の要素を兼ね備えていたからである。




























 

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