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 前漢時代、漢朝と匈奴の戦争中、双方とも御敵巫術を使用した。匈奴が用いたのは縛馬術と祝詛術である。彼らは前脚と後ろ脚を縛った軍馬を漢軍支配下の城内に放ち、叫ぶ。

「秦人よ。若駒をくれてやろうぞ!(我丐若馬!)」。当時の匈奴は漢人を旧称の秦人と呼んでいた。漢の軍官がこのことを朝廷に報告すると、漢武帝は大臣らを招集し、討論した。ある人の認識では、匈奴が自ら馬を縛るのは、彼らにとって不祥の兆しだという。またある人の認識では、匈奴が馬を放つのは虚勢を張っているのであり、彼らの内心は虚弱で、財力も不足しているという。のちに漢軍は匈奴のスパイを捕えた。彼が話す縛馬の狙いと漢人が想像していたものとはまったく違っていた。それは「呪詛軍事」の法術だった。呪詛によって漢軍の軍馬をみな縛り上げ、漢軍の攻撃力と戦闘力を奪ってしまおうというのである。俘虜が言うには、匈奴人は漢軍が征伐にやってくると聞き、先に巫師を派遣し、漢軍が通過する道路や河川の下に牛や羊を埋め、呪術をかけた。匈奴の単于は漢朝皇帝に馬皮を送ったが、それらはあらかじめ巫師によって呪術をかけられていた。

 これは珍しい話ではなかった。漢武帝は巫師に命じて匈奴各国に対する呪詛を実施させた。太初元年(前104年)、漢軍は大宛を討伐し、武帝は丁夫人[皇后。前141~87?]や洛陽の虞初[文筆家。前140~87]に匈奴や大宛を方祠[方士が建てた祠]で呪詛するよう命じた。丁夫人の名丁は、彼女が越の一族の後裔、巫術世家であることを示している。彼女は「(呪)詛でもって軍功を為した」とされる。この前後に何度も祠詛をおこない、戦いを助けたと言われる。

 このほか元鼎五年(前112年)、漢軍が南越を討伐したとき、漢武帝は何種類もの厭勝儀式をおこなった。そのときの厭勝霊物には、日月、北斗、登竜などの画があった。牡荊(ぼけい)を旗ざおとする霊旗もあった。