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 南北朝の頃、著名な術士陸法和[南北朝期の道教・仏教に通じた江陵百里洲の術士]と綦母懐文[きぶ かいぶん 南北朝期の冶金家。襄国宿鉄刀で有名]。陸法和は仏教居士で、梁朝では神人と目された。梁大宝二年(551年)、陸法和は蛮族の弟子八百人を率いて梁湘東王蕭繹(しょうえき)を助け、侯景の部将任約を打破した。戦役中陸法和の法術はすこぶる霊験があったという。のちに蕭繹は皇帝(梁元帝)となり、陸法和は郢(えい)州刺史などに任じられた。しかし大宝四年、北斉高洋が梁の中心地江陵を攻めたとき、陸法和は敵の法術を破ることができず、戦闘が始まる前に郢州吏民を連れて投降してしまった。高洋に会いに行く準備をしていたとき、陸法和は「下馬禹歩」をおこなった。するとそばの人が彼は「万里帰誠」の降将のように見える、もはやふたたび法術を語る資格はない、と指摘した。

 もうひとりの術士綦母懐文は陸法和と比べるとわずかに早い。武定元年(543年)、東魏と西魏が邙山(ぼうさん)で戦っているとき、高歓率いる東魏軍が赤旗を掲げ、西魏軍が黒旗を掲げた。道術はすぐれているので、高歓は幕下(ばっか)の綦母懐文のもとを訪ねた。そこで赤は火の色で、黒は水の色である。水は火を滅すことができる。それゆえ東魏軍は旗の色を赤から黄色に変えるべきである、と学んだ。土でもって水を制す、である。高歓はそれを聞いてすぐ旗を土黄色に変えた。綦母懐文はこういった法術を会得していたので、信州刺史に任命された。

 おおよそ漢代頃から、陰陽五行学を根拠とする六甲や六壬、遁甲といった微細な予測術が考え出されはじめた。これらは紙上の談兵、盤上の談兵の技法(六壬、遁甲は軸の周囲をまわり、上下が対称でない円盤の予測で吉凶を占う)であり、将軍が欲する遊戯であって、もともと害をもたらすことはなかった。しかしこれを真剣に用いて作戦を立てる人も現れるようになった。

 靖康元年(1126年)、宋都汴梁[現在の開封市]は陥落し、金人に取り囲まれた。宋軍は、しかし、巫術に頼ってこの危機を脱しようとした。丙辰の月[閏十一月]、妖人[妖術使い]郭京は六甲法を用い、京城の守御人全員に下城[京城から出ていくこと]を命じ、宣化門を開け放ち、金軍に向かって進撃するよう命じた。しかし宋軍はあえなく大敗した。郭京は厳罰を恐れ、あらたな下城の命令だといい加減なことを言って、人馬を連れて逃走した。