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 元末期の至正十一年(1351年)、元朝は方国珍を討伐するために大軍を派遣した。このとき方国珍軍に「風を呼び、雨を喚(よ)ぶ」ことのできる人がいるともっぱら評判になった。そのため元朝大臣らは推挙された松江の術士謝暘景(しゃようけい)に戦争に助力するよう要請した。元の総兵官は松江知府へ送る要請文をしたためた。

「軍事行動を決断するため、尋常ならざる人を訪ねる必要があります。上帝に報告するので、まさに世のためになるのです」と地方官に謝氏に協力してもらうよう要請した。謝氏は前線にやってきたが、「その術はまったく効果がなかった」。結果は元軍の大敗だった。

 清代のモンゴル・ラマはつねに巫術でもって戦いに参加していた。ラマは呪詛の術を持っていて、モンゴルで争いが起きたとき、弟子たちに『黒経』を誦させた。ときには効果があった。しかし担当した蕃僧が自ら斃れることがあったので、それは邪術だったのだろう。批評する者は言う、「強大な国ではあるが、威徳(威厳と人徳)で勝つことができなければ、敵を制圧するためにわずかばかりの異術を会得しようとするのは、志が低いというものである」。

 御敵法術のたぶらかす力は主に、その安全省力(安全でかつ力をセーブすること)から来ている。古代術士によって直接伝えられてきた「布豆成兵馬」(豆をまいて兵馬となす)の神話がある。明清の民間秘密組織に流行したいわゆる「切り紙兵となす」の法術である。豆兵・紙兵でもって敵を制し、勝利を得る。つまり代価がきわめて少ないのに、大きな効果を得ることができるのだ。この神話ではつねに打ち破られるかもしれないけれど、依然として人の心を動かすことができる。

 つぎに御敵術と関係のある辟兵法術を見てもらおう。この種の法術を使用して、兵器による傷害を避けることができる。はなはだしくは、相手方の兵器の向きを逆にして、相手方に傷害を出すことができると術士は認識している。

御敵術は敵方の将兵を厭勝することに重点を置き、辟兵術は敵方の武器を厭勝することに重点を置いている。御敵術は敵方の集団を消滅することを意図し、辟兵術は自軍の個人の防衛のために用いられる。当然のことながら、辟兵術は御敵もおこなうので、両者の間には厳密な境界線があるわけではない。

『漢書』「芸文志」中の兵陰陽家[四大兵家の一つ]には『辟兵威勝方』七十篇の著作があり、一部は辟兵について述べたものであり、一部は勝ちを制することについて述べたものである。