(6)

 秦代の竹簡『日書』に裁衣法の記述があり、裁衣の時期と人事の吉凶との間に関連があると述べている。そのなかにつぎのような一文がある。「丁酉材(裁)衣、衣常(裳)以西、有(又)以東行、以坐而飲酉(酒)、矢兵不入于身、身不傷」。大まかな意味は、丁酉(ていゆう)は衣裳を裁つのによい日だ。裳裙(はかま)をはいてまず西に向かい、そして東に向かって進んで、のちに座って酒を飲む。すると鋒(ほこ)、鏑(かぶら)、矢による傷害を免れる、ということである。

 馬王堆漢墓から出土した壁画には避兵儀式の様子が描かれている。学者はこれを神祇図、あるいは避兵図と呼んでいる。この図の上段の中央に太一神が、その左右に雷公と雨師が描かれる。中段には四人の「武弟子」が描かれ(そのうち三人が手に武器を持つ)、下段には三匹の竜が描かれる。

図全体の題のほか、個別の図像に説明の文字が付されている。総題は「百兵莫敢我傷」で、武弟子の図像には「百刃莫敢起」「我虒裘(しきゅう)、弓矢敢来」という説明の題字が付されている。これらの図の内容は辟兵と関連があることを示している。

 題字にはまた「即左右唾、径身(行)毋顧。太一祝日 某今日且□□」と記される。これよりこの壁画は辟兵儀法と呪語に関するものであることがわかる。「即左右唾、径身(行)毋顧」とは、「百兵莫敢我傷」などの呪語を唱え、左右に唾を噴出し、直行して顧みない。ついで「太一神」と念じる。

 漢武帝は南越を征伐するとき、何度も兵祷儀式をおこなった。この帛画は鼙祷の様子が描かれているので、兵祷図と呼んでもいいかもしれない。それ自体は辟兵霊物というわけではけっしてなく、ただ「導引図」「禹蔵図」のように辟兵儀式をどのようにおこなうか指導する図なのである。

この推測から考えると、当時の兵祷儀式のなかで人が太一神と雷公雨師に扮し、それぞれ辟兵の呪語を念じた(図の題はほとんどが呪語)と思われる。また四人が「武弟子」に扮した。その役割は儺(ついな)の礼の中の侲子とほぼおなじである。そのとき辟兵の呪語を唱えなければならない。兵祷の場所にはまた三匹の竜を置かなければならない。

兵祷儀式にはなぜ雷公、雨師、神竜を請来しなければならないのだろうか。蚩尤と黄帝が戦ったときの「風伯・雨師に請願して大風雨を招く」神話を思い起こせば、理解しやすいだろう。

湖北荊門橋の戦国時代の墓から「兵闢太歳」の銘文と太歳神像の銅戈(どうか)が出土している。この銅戈の図像と兵祷図の太一神図像はよく似ている。これが意味するのは、神に扮し、辟兵御敵の祈祷をし、呪語を唱える儀式は戦国時代にはすでに流行していたということである。