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北斗星から克敵制勝(敵を克服し、勝利を得る)の神力を獲得することができるという認識は、漢代の術士の間で広がった観念だった。新朝天風四年(17年)、各地みな「ことごとく盗賊となる」といったありさまで、王莽政権は末路を迎えようとしていた。
この年の八月、世の兵器を圧伏するため、自ら南郊へ行き辟兵霊物である「威斗」を鋳造した。「威斗なるもの、五石銅で造った北斗のごとき形の、長さ二尺五寸の兵器である。これによって衆兵に厭勝せんと欲す」。五石銅とは、五色の薬石と銅鉱石を混ぜて練成した銅である。
威斗を鋳造したあと、王莽は司命官に時に応じてこれを背負わせて護衛をさせた。出門のとき、彼らは威斗を背負って先導し、宮廷に入るとき、彼らは威斗を背負い、王莽の左右に侍って護衛した。王莽はこれが北斗の象徴であり、衆兵に厭勝する霊物で、すべての刀剣による傷害、とくに刺客の襲撃から身を守ってくれると信じていた。
漢代の術士は、カエルは雨を求めるときに用いられるほか、辟兵や解縛に効能があると認識している。『淮南子』「説林訓」には「鼓造辟兵、寿尽五月之望」とある。鼓造とはカエルのことだ。漢代の人は五月十五日にカエルの羹(あつもの)を飲めば(食べれば)辟兵(戦乱を避けること)ができると信じていた。それゆえ「五月之望[望は旧暦の十五日、あるいはその満月]」になるとカエルを捕えて殺した。カエルは辟兵という利点があるからこそ用いられたのであり、それによって永寿を享受するわけではなかった。それゆえ五月望日が固定された死期となった。
『淮南子』とおなじ作者らによって書かれた『淮南万畢術』によると、五月五日に喉の下に「八」字のあるカエルを捕え、その四つ足を縛り上げて陰干しする。百日後、カエルをすりつぶして粉にして、五色の袋の中に入れる。縛り上げられた人が頭上にこの袋を載せ、自ら脱する。後漢の人が編纂した『神農本草経』にもおなじ内容のものが記されている。
カエルの辟兵術は魏晋南北朝の時代になるとさらに広く伝わった。当時の人はヒキガエル、すなわちガマが辟兵にもっとも効果があると考えていた。晋人の伝説ではヒキガエル辟兵術には少なくとも二種類あった。
一つは、月食の時に喉元に八の字がある三歳のヒキガエルの血で文字が書かれた刀剣。つまりガマの血で刀剣に文字や護符を書くこと。
もう一つは、陰干しした肉芝を身に着けて携えること。「肉芝とは、万歳のヒキガエルのことである。頭上には角があり、喉元にここでもまた朱書きの八の字が見える。五月五日の日中に(このカエルを)取り、陰干しにして百日、その左手で地を描き、水を流す。また身体にその左手を帯びて、五兵を辟(避)ける。もし敵が射たとしても、弓・弩の矢はことごとく向きを変えて自らに向かうだろう」。
後者の法術は五月五日にヒキガエルを取ることを強調している。そしてカエルの喉元に八の字があることを要求している。取ったカエルを百日陰干しするという処理方式は継承され、漢代の解縛術につながっている。晋代以降ヒキガエルを取る日は五月五日に固定されている。『荊楚歳時記』に「五月五日、俗にこの日ヒキガエルを取り、辟兵となす。六日、すなわちカエルを用いず。ゆえに六日カエルと呼ぶのはこれを起源としている」と述べている。五月六日のヒキガエルは完全に辟兵に対して効能をなくしている。ゆえに世の人は「六日カエル」を無用の長物のたとえとした。