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 晋代以降辟兵術の種類はしだいに増えていった。唐代の民間の習慣で、正月初一にカササギの巣を焼き、あとで厠(かわや)の中に放った。このように辟兵(兵器を避けること)ができると考えたのである。道士はまた霊符を貼った辟兵し、勝利を得る三寸鏡を懐に持っていた。

 『千金翼方』巻三十では悪人を追殺する「護身禁法」について詳しく述べている。この種の呪法は辟兵術と理解することができる。仇や悪党とたまたま出会ったら、まず後ろに三歩後退し、生きた人間の喉をひねる。

そして両足の親指を地面に立てて、呪文を唱える。「北斗神君、来て悪人を滅ぼしたまえ。敵の某甲の頭を斬り、天門に送り給え。急急如太上老君魁剛律令!」。

ほかにつぎのような呪文がある。「兵を揚げて我を追え。返す刀で征服しよう。明星北斗、却敵万里」。

この呪法と漢代の図画に描く北斗辟兵法、太一に扮して舞う辟兵法、王莽の威斗辟兵術、道士介象の北斗神名を唱える辟兵法など、脈々と伝承されてきたことがうかがえる。

 明清代、辟兵術はなおも広く残っていて、衰える兆しはなかった。明清代の戦争中、しばしば裸体の女性を用いて大砲を厭勝するという現象が見られた。『続子不語』にも明末期の和尚の「撮土避賊」(土を盛って賊の害を避ける)の故事が収録されている。光緒年間に名士鄒弢(すうとう)は言った。大愚和尚という和尚と会ったが、彼は遁甲術の「反砲傷敵」をよくし、敵に「槍砲不霊」をもたらした、と。この種の辟兵法術が失われてしまったのは残念だと彼は述べている。これらのことから明清代の術士が辟兵巫術を堅く信じていたことがわかる。

 畏怖、疑惑で見られること、検証されること。これは巫術の弱点である。辟兵法術も似たようなものだ。紀昀はたまたま高価な兜が買える数百金の薪窯の磁器の破片を売る旅商人と会った。この磁器の破片は甲冑にぴったりとおさまったので「戦場に臨んでも、これで火器を避けることができる」と言い放った。取り囲んで見ている者たちには、磁器の破片に霊験があるかどうか判定する手掛かりを持たなかった。

紀昀は言った。「なぜこれを縄で吊るさないのだろうか。なぜ銃の鉛の弾でこれを撃たないのだろうか。辟火(火器を避ける)なら、砕けることはない。数百金でも高くはない。もし砕けたなら、辟火ではなかったことになる。数百金なんて価値はまったくない」。

旅商人は試すことを許さず、紀昀に対して言った。「こうやって試すのはよくないですな。興ざめってものです」。しかし奥深くて微妙な話を面白がる人はいるもので、この磁器の破片は最終的に宦官の家に百金で買われたという。