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 葛洪は隠淪[身体を見えなくすること]の道について詳しく述べている。彼は坐在立亡の術を神道五種の一つと認識していた。ただしこの法術は延年益寿[長生きすること]に関しては効がなく、戦乱が差し迫っているときのみ役に立った。避難するときほかによい方法がなければ「これを使うしかない」。葛洪は鄭隠[?~302]や道経の一部から得た主な坐在立亡の術を列挙する。この法術には符、薬、その他霊物を用いることや特別な方角にいることなどが含まれる。たとえばつぎのような例を挙げる。

 「大隠符」を服用してから十日後、体を左に回転すると、見えなくなる(隠没無形)。つぎに右に回転すると、また体が出現する。

 怡丸(いがん)や蛇足散(だそくさん)を身体に塗る。

 離母の草を懐に入れる。

 「青竜草を折りたたみ、六丁神のもとにひれ伏す。竹田の中に入り、天枢[大熊座α星A北斗七星の星。貪狼星]の土を執る。河竜を訪ね、石室を造り、雲蓋の暗い陰に陥る。清冷の淵で身を隠し、幽闕(ゆうけつ)の道を通る」

 青竜、六丁などの具体的な意味はかならずしも明確ではない。ただし方位の概念が含まれているのは間違いない。

 「乱世を避け、名山に身を隠す。上元(元宵節)丁卯日をもって、憂いがないものとする。名いわく陰徳の時、またの名、天心の時、隠身し、跡を消すことができる。白日(太陽)が消え、日月が光を失い、人も鬼も(その姿を)見ることができなくなる」。ここで強調しているのは、術をおこなうときの日にちの選定の重要性である。

 山林に入ると、左手で「青竜」の方向の草を取り、半分ほどを切って、「逢星」の下に置く。そして前に踏み出して禹歩で「明堂」を経て「太陰」に入る。三度「諾皐(だくこう)よ、太陰将軍よ。ひとり曽孫王甲に術を与えよ。ほかの人に与えてはいけない。人に甲を見せても、薪の束にしか見えない。甲が見えなければ、それは人でない(鬼)からである」と唱える。呪文を唱え終わると、手の中の草のもう半分を地上に置き、左手で土を取り、鼻孔や体の中部位に塗る。このあと右手で草を持ち、自らを覆う。そして左手を前に置く。さらに禹歩で六癸の方向に歩き、閉気(体内に気を閉じ込める)站定(岩のように動かない)をなす。すなわち「人も鬼も見ることができない」。

 葛洪が指摘するように晋代に流伝した移形易貌術に関する論書のなかでも、もっとも長いのは『墨子五行記』である。この書はもともと五巻あり、のちに仙人劉根(君安)が「鈔取其要」(要旨をまとめる)によって一巻とした。

 「その法、薬を用い、符を用い、人を上下に飛行させ、どこにでも隠れさせ、婦人には笑みを浮かべさせ、老人にはしかめ面をさせ、子供は遊ばせる」。

 『玉女隠微』一巻には「形を変え、飛禽走獣および金木玉石となる」法術について述べられている。この書の伝授は「曲折難識」、すなわち自分のものとするのはきわめて難しかった。漢代には『淮南万畢術』などの方術書が書かれたが、どれも詳しさでこの書に及ばなかった。

 葛洪の説く移形易貌術のなかでももっとも奇怪なのは「白虎七変法」だ。三月三日に殺した白虎の頭皮、生きたラクダの血、虎血、紫綬、履組、流萍の六種のものが三月三日に混ぜて土の下に植えられた。芽吹いた草は成長して胡麻に似た実を結んだ。ふたたび種を植えると成長してまた違う草になった。種を植えるたびに草の形状と実は変異した。連続して七度植えると(七変化はここから生まれた)「すなわちこのことを用いて移形易貌は可能になり、飛んだり沈んだりは意のままだった」。

この文を分析すると、紫綬は大印上の紫色の結いヒモ、履組は鞋(ぞうり)のヒモ、流萍は水萍(浮草)の一種を示している。これらと虎皮、虎血、ラクダの血を配合して移形易貌の神薬を作る。どういった原理に基づいているのかはわからない。道士はこれら六種の雑多なものの関係を把握して、辛抱強く七度も混ぜて植える。彼らの高度な想像力と法術に対する熱意があるからこそできるのである。