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 地隠八術は日時、方位、呪語、叩歯、咽気、撮土に関するもので、比較的整然としていて、あきらかに葛洪が記した隠身術が発展したものである。閉目内思(目を閉じて黙想すること)は道士が常用する修練法の一つ。同時にそれは邪悪なものを除き、祓う方法でもある。地隠八術の中における思考の力と気の力は非常に大きく、常人が想像するのはむつかしいほどだ。

 古代小説やわずかな正史のなかに隠身術に関する描写がある。これらはこの種の秘法に古代人がいかに夢中になり、焦がれていたかを反映している。伝説によると、唐玄宗は著名な道士羅公遠から隠形の術を学んだ。しかしながらどんなに学んでも水準に達することはなかった。隠形のとき帯を露出することはなかったが、巾角(冠)が見えてしまった。玄宗は立腹し、羅公遠がすべてを伝授しなかったと責めた。羅は殿柱のなかに身を隠し、玄宗が徳を失ったからだと言い張った。玄宗は柱を破壊させたが、柱の土台石から羅の声がいっそう大きく響いた。柱の土台石を持ってこさせると、それは透けて見え、中に一寸ばかりの羅公遠が動いていた。柱の土台石を壊すと、十数個の石の破片になったが、そのすべてに羅の姿があった。玄宗が謝罪すると、石の破片の羅の姿も消えた。のちに四川で宦官が羅にばったり出会ったが、羅は楽しそうに談笑した。羅は宦官に頼んでその内容を玄宗に伝えた。それ以降は、冗談もほどほどにするということだった。

 ほかの小説にも書かれている。唐代盧山道士茅安道の二人の弟子が老師から隠形洞視の術を学んだ。そして下山して潤州長官韓滉の官府に行って言いがかりをつけたが、隠形術がうまくいかず、韓滉に捕えられてしまった。茅安道は官府にやってくると、硯台の水を口に含んで、枷(かせ)をはめられ、鎖につながれた二人の弟子に噴霧した。すると二人は二匹の黒いネズミとなり、官府の前をめくらめっぽうに走った。安道は迅速に巨大な鷲となり、二匹のネズミを両脚でつかむと、沖のほうへ飛んで行った。

 当時の権力者は民衆の暴動を鎮圧する力がなく、盗賊が異なる術を駆使することを口実に自分の責任を逃れようとした。包汝楫(ほうじょしゅう)『南中記文』に言う、「綏地(すいち)には蔵形術を駆使する常習犯の泥棒が射て、面前でも姿が見えなかった。また盗賊の劉伝宝は幻術や障眼匿形(目くらましと、姿を消したり変身したりすること)を得意とした。毎回法術を用いて去っていった」と。常習の盗賊を捕えようとしても捕えきれないのは、彼が蔵形術を有していたから。これはあきらかに口実だが、こういうことを口実とするのは、多くの人が蔵形術を信じていたということだろう。

 魏の頃邯鄲淳の著書『笑林』という書があった。この書のなかで窃盗をおこなう者を「自らを葉で隠すカマキリ」と風刺している。唐人段成式は言う、「術士が風狸杖でも翳形草(えいけいそう)が得難いかのよう」と。翳形草はおそらくカマキリの身を隠す葉や葛洪が言う離母の草と近い隠形霊物だろう。唐代の術士はこの種の草が手に入りにくいことを承知している。道士が難易度の高い隠身術を考え出してからは、葉で隠すようなお粗末な方法はアピールを失い、嘲笑の的となった。

 古代民間では、隠身術は妖邪術と考えられた。隠身に対して犬の血を撒けばこの術を破解できると認識していた。『聊斎志異』「妖術」にも似た方法が書かれていた。犬の血で隠形術を破解するのは別の巫術を破解する巫術である。それは隠形術と同様、人間性や生活のなかの人間のばかげた側面を反映している。