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 干支の日によって盗人の状況を推測していたが、理解しがたいのは、当時の術士が盗難にあった日と盗人の名前を関係づけていたことである。『盗者』は言う、子日の盗人には鼠、鼷(ケイ)、孔、午、郢(エイ)、丑日の盗人には徐、善、走+豦(キョ)、以、末、寅日の盗人には虎、豸+旱(カン)、(ク)、申、卯日の盗人には兎、竈、陘(ケイ)、突、垣、義、酉という名前が多い。

甲日の盗人には耤、鄭、壬、強、当、良、乙日の盗人には舎、徐、可、不水(フスイ?)[水はゴン編に水。この字はどこにも見当たらない]、亡尤(ぼうゆう)。

このように天干地支によって盗賊の名を推し量ることができる。

 盗賊の見かけの特徴、隠れる場所、住居の方角、性悪、性別、家庭の状況、名前を知ることができれば、捕まえやすい。つまり『日書』に述べる盗人を推測する方法とは、捕盗術[盗人を捕える法術]であり、捕亡術[逃亡する者を追捕する法術]である。

 すでに述べたように、漢代の術士の間では「祝盗方」(盗難の被害に遭わないよう祈る方術)が伝えられた。これは桑樹の東南の枝から作った匕首(あいくち)の表面に北斗七星を描き、術をおこなう者は夜間、さんばら髪で中庭に立ち、北斗の方を向いて、匕首を手に持ち、盗賊に対して呪詛する。

 漢哀帝のとき息夫躬(そくふきゅう)はこの法術によって盗人に厭勝をかけた。盗人がこれによって制圧されたかどうかわからないが、息夫躬はこれによって皇帝を呪詛したと誣告(虚偽告訴)され、獄につながれ、急病を得て死亡した。母親も死刑に処せられ、妻、子は現在の広西合浦に流刑になった。