第4章 12 愛のまじない(上)魂魄を攻撃する一般的な法 

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 原始社会の猟師はすでに巫術を用いてさらに多くの獲物を捕獲することができた。そのなかには失恋の痛手を食らい、この方法を応用して違う「獲物」を得ようとした者がいたかもしれない。推測するに、歴史以前から致愛呪術(愛のまじない)は存在していたかもしれない。マレー半島からユーゴスラビアまで、アラブ地域から米国までいたるところで神秘的な意味を含む致愛活動や致愛方法が見られる。

 古代中国の致愛術の起源は秦代以前にさかのぼることができる。『周礼』「内宰」に言う、宮廷の婦女を教導する責任を負う内宰の職責の一つは「奇邪を禁ずること」であると。鄭玄によると、いわゆる奇邪とは、宮女がおこなっていた致愛巫術(愛のまじない)である。これは漢代の媚道に相当する。秦簡『日書』は裁衣禁忌に言及している。「丁丑衣を材(裁)して媚人入る」。丁丑の日、裁衣、すなわち人を引き入れて愛慕させる。すなわち愛する人を自ら家に入らせる。この細かい記述が明らかにしているのは、戦国時代、あるいはもっと早い時代、民間や宮廷にひそかに致愛術ははやっていた。

 漢代から、この種の巫術の記述は増えていった。便意さを考えて、この巫術を二つに分類したい。一つは、一般的な攻撃的な巫術である。辟邪霊物などよく見られる方法を含む。相手方の霊魂を征服することを重んじる。もう一つは、専門的な致愛霊物を使い、施術者自身の吸引力を増強することを重んじる。

 漢代の皇后、嬪(側室)、妃はひとたび寵愛を失うと、媚道をおこない、君主の心を取り戻そうとするのが常だった。媚道とは、致愛法術の総称であり、そのなかにさまざまな種類の巫術が含まれていた。寵愛を一身に受けたいなら、君主の心を変わらせるために、彼の魂魄を攻撃する必要があった。あるいは彼の妃や側室を攻撃しなければならなかった。それゆえ媚道と巫蠱、祝詛は通じあうところがあった。このため秦代以前から媚道は人を害する邪道とみなされるようになった。漢代宮廷では何度も媚道事件が起こった。当事者はみな厳罰に処せられた。

 漢景帝の皇后栗姫は、媚道によってありもしない罪を着せられて死を強要された。栗姫の子劉栄は太子の身分を剝奪された。

 漢武帝の皇后陳阿嬌は、巫女に「婦人媚道」を実施させた。また「巫蠱、祠祭、祝詛」活動をおこない、発覚したあと、巫女楚服ら三百人以上が処刑され、陳皇后は廃せられた。

 漢成帝の頃、許皇后の姉許謁は皇后が冷遇されるのを見て、ひそかに媚道を実施し、祝詛した。しかし事件が発覚し、許謁は処刑され、許皇后も幽閉された。この前に成帝が寵愛する妃の趙飛燕は「許皇后、班倢伃(はんしょうよ)は媚道をおこない、後宮を祝詛し、主上の悪口を並べている」と誣告(罪を着せて陥れること)していた。班倢伃はずばぬけた才能を持ち、皇帝の憐憫を買ったので、処罰を免れることができた。