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 古代術士は多くの駆怒方法(怒りを駆逐する方法)を編み出している。秦簡『日書』「詰篇」に言う、「人はゆえなく怒(弩)ってはいけない。戊の日、日中は道で黍を食べれば、突然、(怒りは)止む」。ある人は脈絡もなく怒り始めるが、戊日正午、路上で急に黍飯を食べ始める。すると怒気は自らおさまる。この駆怒法と上述の子に母のことを思わせない方法は、黍飯を食べるという点においては同じであり、両者にはあきらかに関連がある。

子供の母を思う気持ちは、しばしば「泣き止まない」という表現を取る。泣き止まないのは、怒りが激しいことを目に見える形で示しているのである。子供が母を思うのを防止する法術を借用して、怒りを止めるのに使用する法術なのである。この分析が成り立つなら、『淮南万畢術』の子供に対処する方法は、伝統的な止怒法術の基礎の上に形成された可能性がある。


合歓(ねむ)が人の怒りを取り除く伝説と、萱草(忘れ草)が人の憂いを忘れさせる伝説は、広がりが同程度であるいえるだろう。

怒気を解除することを蠲憤(けんふん)という。合歓は喬木であり、合昏、夜合などの別名がある。『神農本草経』に「合歓は怒りを消し去り、忘れ草は憂いを忘れさせる」という記述があり、三国時代の名士稽康也は「合歓は怒りを消し去り、忘れ草は憂いを忘れさせる。愚かさと知恵あること、ともに知るなり」と述べている。この二種(合歓と忘れ草)の霊物は、迷信がもっともさかんだった頃のものだ。

 晋人崔豹はつぎにように描く。

「合歓の木は梧桐(あおぎり)と似て、枝葉が繁り、互いに結び合い、風が吹き来るたびに互いに離れ、絡み合わないようにする。庭に合歓の木があれば、人は怒りの気持ちを持たない」

 ただ合歓の木を庭院に植えるだけで憤怒を解消することができた。これは萱草(忘れ草)を北堂に植えて憂いを忘れる法術と基本的には一致する。いにしえより今に至るまで、蘊結(うんけつ)、苑結(うんけつ)、鬱結(いくけつ)といった煩悶や鬱屈が蓄積した心情を表す字面の言葉を用いてきた[三つの言葉とも意味は似ていて、鬱憤がたまることである。苑はこの用法のみ「うん」と読む]。もつれあった心情も、ひとたびきれいに流せば、怒りに火が着くことはないものだ。合歓の木が「風が吹き来るたびに互いに離れ、絡み合わないようにする」特徴を持ち、人の感情と似たところがあるとするなら、それに頼る人からすれば憤怒を解消するよいものである。基本的に同じ理由から、合歓は忘憂霊物(憂いを忘れさせる霊的なもの)である。

 『神農本草経』は合歓の木の樹皮が「五臓を安んじさせ、心臓をなごませ、憂いがないことを喜ばせる」効能があるとし、朱熹(『詩集伝』)は『伯兮』の解釈において「諼草、合歓、これを食べれば憂いを忘れる」と述べている。どちらも合歓、萱草とも同じ効能をもつと認識している。つまり怒りは止まり、憂いは解消する。古代の巫術の領域では、霊物を使用する霊活(スピリチュアルな活動)は珍しくない。