第4章 16 子を授かる呪術
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古代中国においては、家庭の倫理規範や思想意識はつねに支配的な大家族制度の影響を受けてきた。家庭の財産を継承する人を育て、祖先の血統を後世に伝えるのは、婚姻の主要な目的とみなされた。同時に順繰りに家庭に入るのは、すべての成人の人生の基本的な義務と考えられた。子がないということは、後継ぎがないということだった。後継ぎがないということは、祖宗の「血食」が断絶するということだった。これは無能を意味した。それは最大の不幸だった。子のない女性は「七出」(離縁)の対象となり、夫の家に対して慙愧の念を自覚した。子のない男も同様に社会から差別され、蔑視され、説明しがたい煩悶と苦痛のなかに置かれることになった。
古代の人々は出産を重要なものと考えていた。ただし出産の仕組みに関する認識は幼稚な段階にあった。歴代の医術家は不妊の原因は生理的問題ととらえていたが、同時に鬼神、命理[周易学用語。解命理論]といった神秘的な原因とも関係があると考えていた。
隋代巣元方[名医]の言葉は当時の考え方を代表している。「子のない婦人には三つのこと(要因)がある。一つに、墓を祀っていない。二つに、夫婦の年命が相克である。三に夫が病気で、妻が風疹にかかっている。どれも(それが原因で)子に恵まれない。もし墓を祀っていなくて、年命が相克なら、それを治すのに薬は効かない」。
古代医学は同居の時間と受胎の関係についても認識は正確ではなかった。馬王堆帛書『胎産書』から明代袁黄『祈嗣真詮』まで、どれも生理が始まってから三日以内に受胎が可能であり、六、七日後では不可能とする。李時珍は女性が「脇から産む」「額から産む」「背中から産む」「太ももから産む」ことができると信じただけでなく、女性は思慕が深いと夫なくして孕むことができると信じていた。こうした知識が広がる背景として、生子巫術が民間に広く流布していたからだろう。