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古代に流行した生子巫術はその用途によって三つに分類される。一つは、無子の祟りの祓除、あるいは無子の疾患の治療。二つは、胎児の性別の変更。三つは、胎児の未来の運命への影響。
求子(子宝に授かりたいと願うこと)に関する祓祭活動の起源は新石器時代までさかのぼることができる。ここ数十年、考古学者は新石器時代の生殖巫術の遺物を大量に発見してきた。
伝説によると周族の始祖母姜嫄(きょうげん)は祓除無子儀式に参加した。『詩経』「生民」の「禋(いん)を行い、祀を行う。よって無子を祓う」とはこのことを描いている。「生民」の詩はまたつぎのように言及している。
「履帝武敏歆、攸介攸止、載震載夙、載生載育、時維后稷」
聞一多は、この一節は当時の求子儀式の描写であると考えた。「履帝武」とは、上帝の脚印を押すということである。詩の帝は人が扮した上帝であり、前面で踊り、子を求めて婦女のあとを追いかけ、足跡を残す。この神力を受け、無子の祟りを祓除する。ほかの古籍の記載によれば、姜嫄が巨人の脚印の上を踏み、懐妊して子を産むという神話もある。どれも求子儀式を曲折しながらも反映している。
商代の卜辞に少なからず「〇生」という言葉が出てくる[〇はなじみのない文字だが、意味は求に近いので、以降は代替文字として求を当てたい]。
求生は祈求生育儀式である。卜辞では男の子を生むことを嘉、女の子を生むことを不嘉と呼んでいる。商代の求生は男の子を祈り求めることが多かった。求生の祭の対象となるのは高妣丙(こうひへい)、妣庚(ひこう)、妣丙(ひへい)などで、彼女らは王の妻(王后)だった。彼女らは多くの子供を育てたという面では他の妣(ひ)よりもはるかにすぐれていたので、後世の人から生育の神に奉られるようになった。