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 商、周、秦、漢時代の最高の生育神は高禖(こうばい)である。この神は玄鳥、すなわち通常は燕(つばめ)の化身である。商族には「天命玄鳥、降而生商」(天に生まれた玄鳥が人間界に降りて、母簡狄が商の始祖の契を生む)」の神話がある。彼らは玄鳥をトーテムとして奉じ、生育を掌る神鳥とみなした。

 後世の人は男女が通じる「媒」という言葉を借りてそれを呼ぶようになり、文字においては媒を禖に改めた。これはこの生育神の威厳と神聖さを増すためだった。

 周秦時代の祭高禖儀式についてさらに考察を進めていこう。仲春の月(農暦二月)、ツバメの第一陣が北方に帰るとき、天子は自ら郊外に神廟を設置し、太牢の礼でもって高禖を祀った。王后は嬪妃(ひんひ)[妾や女官など]を率いて侍祠にやってくると、祭品や器、道具などの準備を整え、天子と廟の中に同居した。数日間祭祀や求子儀礼などをおこない、結束を固めて雰囲気は最高潮に達した。

 天子は嬪妃をひとりひとり(馬のように)御して、高禖の前に連れていく。あらかじめ弓と矢を受け取っていた祭司は、弓の束を持って構える。天子と官員(役人)らは並んで嬪妃に向かって敬礼する。彼女らが弓矢の威力に感化され、インスピレーションを受け、国家に戦士と英雄を増やすことに尽力できればと願う。


 無子の祟りの祓除と高禖の祭祀の風俗は漢代に大流行した。漢武帝は即位後何年も子宝に恵まれなかった。このため三月上旬、自ら灞水(はすい)のほとりに行き、凶邪を祓除した。二十九歳のとき、はじめて男の子をもうけ、ついに禖神の位牌を設置し、厳重に祭った。また東方朔と枚皋にそれぞれ『皇太子生賦』と『立皇子禖祝』の祭文を書き、高禖に感謝を表すよう命じた。


 「禋(いん)を行い、祀を行う。よって無子を祓う」

 このような活動(天を祀り、子を授かることを願う)は古代中国で頻繁に見られたので、ここでは説明を省略したい。ただ注意しておくべきことは、祭祀と比べ、純粋な生子巫術についての言及は少ないことである。


 秦代以前、芣(ふい)、すなわち「オオバコ」は、女性にとっては聖なるものだった。芣苡の別名は多く、今も通称は車前子である。『詩経』中の「芣苡」という詩は、女性が芣苡を採集するときの歌謡である。芣苡を採る作業をしながら詩を反復して歌う。女性にとって芣苡は特殊な用途を持つものだった。

 毛亨はつぎのように解釈する。「芣苡、馬舃。馬舃、車前なり。懐任(妊)によいものである」。

 『逸周書』「王会」に言う、桴苡(ふい)の木もまた宜子(女性の生育能力)があるという。「桴苡、その実は李(すもも)に似て、これを食べれば子を授かる」。

 晋の孔晁の注。「桴苡を食べれば身ごもる」。

 許慎『説文解字』の解釈は、「芣苡、別名馬舃。李のごとき(実を)食べれば子を授かる。

 『周書』に言う。「芣苡と桴苡は同一である。「その実は李(すもも)のごとき」という桴苡は、結局神化した車前子ということである。

一方芣苡はどうして子を授かる霊物(縁起物)となったのだろうか。聞一多は緻密に分析している。「芣苡(ふい)の音は胚胎(はいたい)に近く、類似律の魔術観念を根拠に、古代の人は、芣苡を食べることで受胎し、子を授かると信じた」。聞一多は『芣苡』の主題の新しい解釈としてつぎのように述べる。「婦人は思うだけで孕むものである。芣苡を食べるだけで懐妊する。ゆえに声をかけあって採集し、これを食べる」。

 当然、車前草を食べると「子を授かる」という観念がすでにあった可能性がある。のちに「胚胎」に近い名をつけたのかもしれない。いずれにせよ周人が芣苡を子を授かる霊物(縁起物)とみなしたのは事実である。