(9)
南北朝の頃、元旦に銅銭を通した縄を木の竿の端に結び、それを手に持ってゴミ屑[食べたあとの骨や殻など]のまわりを何周か回り、そのあと杖をゴミ屑の上に放った。こうすればすべて願いの通りになると考えられた。
隋朝の頃、北方に似た習俗があった。正月一日の夜、「如願」を追求する人がゴミ屑の傍らに立つと、ほかの一人が竿を持ってゴミ屑を叩いた。そしてゴミ屑に代わって痛みを訴えて叫んだ。あるいは細い縄で人形を縛り、ゴミ屑に向かって投げつけた。
小説『録異伝』に記す、盧陵商人の区明は彭沢湖を過ぎたとき、自称青洪君の神仙に招待された。去る際に青洪君は区明に何がほしいかと聞いた。区明は人から聞いたことを思い出し、「如願」のものと答えた。青洪君は出し惜しんでいるように見えたが、区明に如願を授けた。じつはそれは若い女の奴隷だった。区明は如願を得て、有求必応(求めれば必ず応じる)、「数年にして大金持ちになった」。[台湾では至る所に「有求必応」の文字を見かける。これは低級の神、有応公、有応媽を祀ったもの]
このあと区明は「しだいに傲慢になり、如願を愛さなくなった」。ある年の元旦早朝、如願の起床がやや遅く、区明は(怒って)手に木の杖を持って殴りかかった。如願はあわててゴミ屑(糞尿)に頭から突っ込み、それ以来顔を出すことはなかった。そして区明は貧民に没落してしまった。
この物語が出現したということから、如願追求が広範囲で流行していたこと、当時の人の精神に大きな影響を与えていたことがうかがえる。しかし物語そのものは、如願法術の由来が何であるかいかなる真剣な説明をしていない。現在から見ると、新年に竿でゴミ屑を打つとか、ゴミ屑五向って人形を投げつけるというのは駆邪法術である。
秦簡『日書』が触れているのは、桃竿を用いて哀鬼と飄風の気を駆逐することができること、桃竿を用いて居室の四隅と中央を叩けば災禍をのがれることができることだった。また桃の人形が大魅に倒れかかると、それは駆逐された。除夜、あるいは元旦に桃枝を(居室に)置いた。これは秦代以前から代々伝わる習俗である。
後漢の頃、毎年年の終わりになると、朝廷は公卿や将軍に桃竿を分かち与えた。こうしたことと魏晋以来の如願法術との関係を分析すると、如願法術の起源が辟邪術であるという結論が導き出せる。
暗くて汚い場所はすべて妖魅なるものの棲むところとみなされる。ゴミ屑の山も例外ではない。はじめ、人間は一年の平安を保証するために、元旦の日に桃竿や桃人形でゴミ屑中の妖魅を駆逐した。これと桃枝や桃板を放置する新年習俗はもともと違うものではなかった。のちに桃木に対する崇拝が弱まると、一般的な竹竿や人形でゴミ屑を打ち叩くようになり、こうした活動には新しい意味が付与されるようになった。これらは邪悪を除き、平安を保証するためのものだった。現在の言葉なら「如願以償」(願いがかなって満足すること)、とくにお金がもうかって金持ちになることをいう。こうして伝統的な巫術的な手法は新しい「効き目」を持ち、如願術と呼ばれるようになる。
宋代に至っても、蘇州には元旦や除夜に杖でゴミ屑を叩いて願いがかなうよう祈る習俗が完全に残っていた。宋代の范成大『臘月村田楽府十首』は「打灰堆」(灰の山を叩く)の習俗を詠んでいる。
詩の前文を引用すると、「(呉の人は)除夜が明けた暁、ニワトリが鳴き、婢(下女)が杖を持って糞混じりの土を叩いたあと、商売がうまくいくよう祈りながら言葉を述べた。これがいわゆる打灰堆である。これのもとは彭蠡(ほうれい)地方[鄱陽湖か]の清洪君廟の如願故事であるが、呉のもと、今に至るまで(この習俗は)廃れていない」。
『打灰堆』の詩はつぎのように描く。「除夜が終わり、暁の星が輝く頃、願いがかなうよう糞をかきあつめた盛り土を(杖で)叩く。灰を叩くと籬(まがき)にそれが飛び散る。春節の新しい衣装が汚れてしまうが人は気にしない。おばあさんはまず三度祝いの言葉を口にし、我らの家長が富みさかえますようにと唱える。軽い舟が商売のために出発し、重い船になって戻ってくる。母牛は仔牛を連れて歩き、ニワトリはヒヨコにエサをやる。野生の蚕の繭(まゆ)が糸を発し、麦は二つの穂を出す。短い衣は長い衣(長袖の衣)に作り替えることができる。しかしその年の下女は(汚いものに)我慢ができず、私の話にも聞く耳を持たないようだ。もしわが願いがかなわないなら、あなたに任せて彭蠡(ほうれい)湖に戻るとしよう」。
「此符大招経求遂意」(この符は、求遂意符、すなわち望みのものを求める符である。それを大いに招く)
大招とは大いに招致するという意味である。これを作った人の考えでは、この符は如意符と名づけられるものだった。