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唐代の宗居士が言う、博徒がサイコロを振るとき、「伊蹄弥蹄弥掲羅蹄」という呪文を一万遍唱えれば、「彩随呼而成」(呼ぶにしたがって現れる)の神効が得られるという。博徒に一万遍も呪文を唱えさせてから賭けさせるとは、博徒の忍耐力を高評価しすぎである。それゆえ宗居士が示した呪文はほぼ戯言といっていい。極論すれば、賭博を戒めているのかもしれない。しかし後世の少なからぬ人はこの呪文を重要なものとみなした。彼らはこの冗談のような代物を如願法術と考えたのである。彼らが各自の著作にそれについて書くと、広く流行することになった。
魏晋時代の如願法術は、中国巫術史上で象徴的な意味を持つ。如願法術は伝統的な巫術が持つすべての効能を持っている。術士が想像しうるかぎりの巫術の最高地点と最大の優越性を体現している。それによって中国の巫術が他の追随を許さない頂点に達したのである。
如願法術が編み出されたてから千年のうちに、巫術の手法は新しくなり、種類も増加した。ただどれも数量が増えただけの変化で、伝統的な意味合いを突破するものではなかった。20世紀80年代に至り、現代の巫覡は「信息(インフォメーション)」「能量(エネルギー)」といった科学述語を盗用し、伝統的な鬼神観や巫術手法をあらたに解釈しなおした。中国巫術にあらたな変異が発生したことをそれは示している。
民間信仰の伝統から見ると、大衆文化のレベルや人類の精神の欠陥などを角度分析すると、巫術活動は急に姿を消すようなものでなく、一方で社会矛盾から突発的な流行の社会変動を作り出すこともできるのだ。しかし予言といってもいいのだが、中国固有の「怪力乱神を語らず」の文化伝統の抑制のもと、巫術は過去に存在せず、現在も大きすぎる力を持つことができなかった。現代の巫術は、大量のはやりの宗教用語と科学用語を用いて自己を塗り固め、奇怪な様相を呈している。ただし超自然力と精神万能の吹聴をやめるのは不可能である。でたらめな治療を施したところで、生まれながらの不治の病を根本的に治療することはできないだろう。
巫術は永遠に秘密めいていて陰鬱な性格があり、人を健康的な、明るい、高尚な精神生活へと導くことはできない。正常な生活からすれば容認できない陰鬱な空気がむしろ彼らにとっては 心地よいのである。これにより、現代巫術がどんなふうに変わったにせよ、「門庭冷落」(客が来なくて寂れた様子)にして「領土日狭」(家の敷地が狭い様子)といった、困窮した、危機的状況にあるのにはちがいがない。