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 漢武帝以降、南方越族の巫術、たとえば越祠、鶏卜、厭火術、禁呪法などがぞくぞくと中原に入ってきた。そのなかでも越族の禁呪法は内地での影響がきわめて大きく、「越方」と称された。漢代の人はおおよそ南方の巫師は特別で、越巫の禁呪がもっとも威力があると考えた。彼らの呪文は口の中の毒液と混じり、唾を噴いて人を射止め、木を倒し、鳥を落とすことができた。

 後漢の思想家王充は、毒は一種の陽気で、南方の人の陽気は充足していて、ゆえに口には劇毒を含んでいると証明しようとした。『論衡』「言毒」に言う。

「太陽の火気はつねに毒気となる。激しい熱の気である。太陽の照り付ける地は、人を落ち着かなくさせる。落ち着かないので、言葉がトゲとなり、毒となる。ゆえに楚越の人は落ち着きがなく、せっかちだ。人と話しているとき、つばが人に当たる。すると当たったところが腫れたり、傷になったりする。南郡は酷暑の地なので、樹を呪えば樹が枯れ、鳥に唾をかければ鳥が堕ちる。巫咸[ふかん。伝説的な神医]は祈祷によって人の寿命を延ばし、人の災厄を治した。なぜなら江南に生まれ、激しい気を持っていたからである」。

 またこうも言っている。

「小人はみな毒気を持っている。陽地の小人の毒は激烈である。ゆえに南越の人が祈祷すればすぐに効果が現れる」。

 王充が言おうとしているのは、南方では巫師が人を射る唾をもっているだけでなく、普通の南方人の唾でさえ尋常ではないということである。王充は鬼神も禁忌も信じていなかったが、越巫の唾の呪術は信じていた。越族の噀唾(そんだ)術が後漢の時期に大きな影響力を持っていたことは、このことからも推し量れる。


 唾法が伝わってから長い時間がたち、その合理的な根拠を探す人もいた。上述の王充もそのひとりである。王充は陽明学を用いて「唾が人を射る」ことを論証しようとしたが、魏晋の頃には、鬼の立場から説明を試みる人もいた。彼らによると、鬼はほとんどのものを畏れないが、「人の唾だけは嫌い」だという。

 この奇妙な論理をはじめに記したのは晋の張華である。『列異伝』の中で枯葉述べる。南陽の宋定伯がある晩歩いていると、一匹の鬼と出会った。鬼は隠そうともせず自分のことを述べ、宋に対して何者なのかたずねてきた。宋はずる賢く「おれも鬼なんだ」と答えた。本物の鬼とにせものの鬼が互いにどこへ行こうとしているかたずねると、両者とも行き先が宛市(いち)であることがわかったので、一緒に向かうことにした。

 途中で宋は教えを乞うた。「おれは鬼になったばかりでよくわからないことが多い。鬼って何を畏れるんだい?」。鬼は答えた。「鬼が恐れるって、そりゃ人から顔に唾をかけられることさ」。

 宛市の中心に着くと、宋は鬼を地面にねじ伏せた。すると鬼は一匹の羊に変身した。宋定伯は市場で大声を出して羊を売り始めた。鬼がまた姿を変えてはまずいので、宋は羊に唾を吐きかけた。最終的に羊は千五百銭で売れた。当時の人は宋をうらやましく思い、「定伯売鬼、千五を得る」ということわざができたという。

 鬼を唾で制圧するのは簡単なことである。自身がなく、疑いを持つ者も、これならできると歓迎しただろう。鬼が唾を畏れるという観念と唾鬼法術はこうして広く流行した。

 宋の郭彖(かくたん)『車志(きしゃし)』に言う、孫元善が市場を通り過ぎたとき、餅を売っている者が死んだ下僕にそっくりだった。これは鬼に違いないと思い、その餅売りに唾を吐きかけた。

 また明の姚旅『露書』には、「鬼は符を畏れず、ただ唾を畏れる。人は辱めを畏れず、ただ妻を畏れる」という詩句がある。