スワミ・チンマヤナンダとの会話 

ナンシー・フリーマン 宮本神酒男編訳 

 

宗教 

:スワミジ、宗教の目的とは何だとお考えですか? 

:成熟した人がいるとします。彼は知性を働かせて人生を体験してきました。また人生のできごとに対し、油断することなく、批判精神を忘れずに対処してきました。そんな彼が内面的にも成熟に達したとします。すると漠然と不安を感じるものです。彼は人生に必要なものはすべて持っています。しかしそれで完全に満足するわけではないのです。彼は内なるくぐもった声を聞きます。「私はどこから来たのか」「私はどこへ行くのか(いつか行かねばならないのか)」「人生は空虚で無意味なものなのか」「人生に目的はあるのか」
 宗教はこういう人のためにあるのです。これら内なる質問の答えを探ろうとする者のために宗教は請け合い、導いてあげるのです。


:あなたのおっしゃる宗教はとてもポジティブであるように思われます。しかし宗教の名のもとに不正な行為や戦争が起こっているのではないでしょうか。成熟した、知的な、批判的精神を持った人々はそのような宗教を拒絶しています。

:たしかに栄光ある宗教の衣をまとい、極悪、残虐、野心、狂気などが戦争を伴って、表舞台に繰り返し登場してきます。今日でさえ怒りのままに戦争の狂気の道に邁進し、宗教の名のもとに、略奪、殺人、収奪、レイプがおこなわれ、われわれに恥辱を与えるのです。こうして宗教は平和を愛する人々や高潔な人々にも危険な顔を見せるようになったのです。しかしこれは宗教ではありません。こうした狂信者に武器を取らせ、弱者や無力な者たちを殺させているのは、宗教の信仰ではありません。それは宗教の信心を装った下劣な獣性なのです。


:たしかにそのとおりですが、では教会の組織で働いている人々はどうでしょうか。彼らはスピリチュアルではないように思われるのですが。愛と慈しみの質に駆けているのではないでしょうか。心が狭いように見えます。

:宗教は、「気づき」をもって生き、人生の経験を吟味することのできる、成熟した人々のためにあると私は言いました。もちろん大多数の人々は「肉体の悲しみと心の苦痛の理由」について疑問を投げかけることはしません。彼らはあわててエキサイトする何かや、心のつかの間の空想のなぐさみものを探し出します。彼らはいつもの形式的な宗教の神のほうを向くかもしれません。教会に行ったり、お布施をしたり、お寺を建てさえするかもしれません。日曜に教会の席についているかもしれないし、お寺で日々の祈りを唱えているかもしれないのです。しかしこれらのすべては心がそれ自体を見ないようにするための憂さ晴らしにすぎないのです。こうしてその不幸な状態から目をそらしているのです。


:スワミジ、あなたは宗教を人生に対し答えを与える哲学だとおっしゃいました。しかしインドでさえも、ヒンドゥー教徒を自称する大多数の人々はヴェーダンタ哲学を知りません。

:そのとおりです。ヒンドゥー教はいわば巨大な円形劇場にじつに多くの崇高な原理を保存し、崇拝してきました。それらはプラーナ(叙事詩)やヴェーダ、ならびに1001の経典の解釈を含む無数の経典のなかに含まれています。数があまりに多いため、「真の美」と小さな「真実の寺院」の偉大さが隠されてしまったのです。今日ではそれは自身の旗の後ろに隠れてしまっているのです。
 真の宗教には両翼となるべき2つの重要な要素があります。それは儀礼上の形式的な決めごとと、哲学的な裏付けです。われわれの多くはなんとなく前者を宗教とみなしているのです。しかし哲学の裏付けがなければ、儀礼と形式的な決めごとはたんなる迷信にすぎません。外側だけ見れば、哲学によって実践面が強化されます。そして目的やめざしているものが与えられるのです。実践を伴わない哲学は狂気にすぎません。また儀礼と理性は互いにうまくやっていけるはずです。
 宗教は、物質世界の本質において、あるいは世の中の決まりきったパターンにおいて、魔法のような変化が起こると約束することはありません。人が霊的な洞察力を持っていようといまいと、世界はさして変わらず、「永遠の法則」にしたがっておなじ状況がつづくでしょう。宗教だけが信心深い者に、人生の避けられない変化に面と向かえるよう、心理的バランスと精神的な落ち着きを与えることができるのです。


:すると他の宗教を非難する人は真の霊的な洞察は持てない……。

:そうです。すべての宗教はおなじゴールをめざします。個人がひとたびこのゴールを理解すると、彼は他者を軽蔑することがなくなり、狂信的に自分の考え方だけが正しいなどと主張することがなくなります。真実を理解した者は慎み深いのであって、狂信的ではないのです。私たちはみなひとつです。ひとつの神があるだけなのです。


:スワミジ、あなたがおっしゃる信仰は、どうやったら得られるのでしょうか。

:信仰は理解から湧き出てくるものです。理解が成長すると確信となるのです。それゆえ聖典を勉強し、そこに与えられた考えを熟考することによって人は進化するのです。確信が強まるにつれて、至高の状態を経験したいという欲望が高まります。


:信仰本当に必要なのですか。

:そうです。世界のどんな努力にも必要なのです。信仰を持つことによってあなたが従事している仕事にも、給料アップのような結果をもたらすでしょう。しかし信仰はすでにだれもが持っているのです。魔王のラヴァナでさえ、自分の栄光を取り戻すための自分の力に対する信仰を持っていました。
 神への信仰を持つということは、あなたが神を得ることなのです。曖昧な、さまよう信仰であってはなりません。到達すべき真の知的なゴールの理解が基本となるべきです。