チョギャム・トゥルンパ伝 第1章1
ファブリース・ミダム 宮本神酒男訳
このムクポ氏という人物、ごく普通の人物である。彼はごく単純に、チベットから脱出してきた。なぜ脱出したかといえば、中国共産党の弾圧に遭ったからである。彼はチベット人の世界の外側の世界と関係をもつ可能性を探っている。そして彼自身の実践修行について彼が感じていることを、彼が研究してきたこと、彼が学んできたことを、これらの人々と分かち合うことはできないだろうかと考えている。それがいま、ここで、私がしようとしていることにほかならない。
――チョギャム・トゥルンパ
1 ヒッピー・アメリカとの出会い
チョギャム・トゥルンパ、ヒッピー世代と出会う
チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは英国で7年間過ごしたあと、1970年3月、米国に渡った。ヒッピー・ムーブメントはまだ全盛期のさなかだった。世代全体に一風変わったライフスタイルや、自発の精神、体制への反逆などで目立とうとする風潮があった。若者は年長者の生き方に食い下がって問い詰めたり、抵抗したりした。その結果、西欧文化にユニークな瞬間がやってきた。
ビート世代の作家たち、たとえばジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、そしてウィリアム・バロウズらに刺激を受けて、ヒッピーたちは心の狭いミドルクラスの従順な者たちを冷笑し、精神拡張ドラッグ、たとえばマリファナやLSDなどを自由への扉の鍵としてその使用を提唱した。
ヒッピーたちの生活は、帰農コミューンや都市部の共同生活から、全米中を遊牧民のように放浪する者たちまで、じつにさまざまな種類のものがあった。多くは「愛と平和」のサインを出して反戦運動に加わっているような「フラワーチルドレン」だった。ヒッピーたちはサイケデリックやフリーラブから、芸術、神秘主義まで、きわめて規律の悪い興味本位の精神のもと、さまざまな実験的な実践活動に参加した。
スピリチュアル志向のなかではヒンドゥー・チャンティングやヨーガ、禅などが伝統的な宗教の布教や活動のカウンターカルチャーとしてポピュラーになった。
この若者たちは「愛と平和」の世界を無邪気に欲したのだが、彼らの開かれた心、あるいは混乱によって土地が耕され、仏教を受け入れる肥沃な土壌ができあがった。リンポチェ(チョギャム・トゥルンパの名誉あるタイトル。チベット語で尊い宝の意)は西欧ではじめてチベット仏教の実践をおこなうコミュニティの創設者になったのである。このコミュニティはいまも重要な活動をつづけている。彼が成し遂げたものはとてつもなく大きかったと言えるだろう。
彼はもっとも深い部分も含めて仏教の教えを西欧にもたらした。そして彼の後継者となり、リージェントとなる西欧の信奉者のひとりをよく訓練した。またナーローパ学院(現在のナーローパ大学)という大学や、子供のための学校や世俗の教育のプログラム(シャンバラ・トレーニング)を創設した。熟考心理学(マイトリー・スペース・アウェアネス)や演劇学校(ムドラー・スペース・アウェアネス)なども開始した。たくさんの著書や詩集を出版し、書道家、写真家として芸術作品を生み出した。
しかしこれらすべては隔絶した個人の事業というわけではなかった。それはむしろ人と世代の出会いの結果、生まれたものだった。世代のもっとも深いインスピレーションを受けて、彼が具現化したのである。ダイレクトにヒッピー運動のなかに入っていったチョギャム・トゥルンパは、混乱したやりかたではあったが、本物と自由を求めたヒッピーたちにこたえたのである。
1970年のはじめ、チョギャム・トゥルンパは若者たちとおなじ言語を話していた。おなじカジュアルな衣服を着て、彼らが好むアルコールやドラッグをたしなんだ。おなじ食べ物を食べて、家の中で、ときにはむきだしの床の上で、彼らといっしょに寝た。
チョギャム・トゥルンパは台座の上に置かれるような遠い大先生に見られたくなかった。むしろ気軽に接することができる存在でありたかった。さらに、当時、チベット仏教がどのようなことを実践的におこなっているのか西欧には知られていなかった。だからエキゾチックなラマの衣装や装飾を捨て、彼らのホームで人々と会おうとするのはもっともなことだった。