偽善を越えた真のコミュニケーション
ダイアナ・パイバス・ムクポは、スコットランドでチョギャム・トゥルンパと結婚したばかりの頃のあるできごとを思い起こす。それは当時の夫の態度をよく表したエピソードなのである。ふたりは結婚してすぐアメリカに渡っていた。
ある日、東部インディアンのかっこうをした若い米国人ヒッピーが彼らの家を訪ねてきた。彼は階段を上がり、チョギャム・トゥルンパを見るとたずねた。
「ぼくは遠いところからグルに会うためにやってきたんだ。グルはどこにいる? どうしても会いたいんだ!」
チョギャム・トゥルンパは知らない、おそらく住所を間違えたんだろう、と返答した。ヒッピーの若者はがっかりして階段を降りた。ダイアナは彼に戻ってもう一度ちゃんと見てください、と助言した。
たしかに階段の上の男がグルだと思うほうが無理だった。年齢は31、ジーパンをはき、ゆるめのカウボーイ・シャツを着て、上のボタンをはずしている男のどこがグルだろうか。しかも彼はタバコを吸い、ウイスキーを飲んでいた。彼の見かけはスピリチュアルな師(マスター)はこうあるべきだという旧態の概念に真っ向から反していた。
アメリカに渡ってからの数年間、チョギャム・トゥルンパはこのように自分自身をシンプルに見せていた。彼は人々とできるだけありのままで会うことにしていた。正直であることにつとめ、彼は因習にとらわれていないことを隠さなかった。典型的な西欧人が彼に期待しているものが何であろうと、育てられているときに何が求められていたのであろうと、彼は気にしていなかった。
チベットでは若いトゥルク(転生ラマ)として、何人かの召使いをそばにかかえていた。そして訪問者がランクに応じた敬意を払えるよう、高いところにある玉座に坐らなければならなかった。西欧人は東洋の賢者の智慧がどのようにして現れるかについて、かぎられた見方しかできなかったし、いまもできていない。どんな状況下でも、静寂を破って智慧が現れるかのように彼らは期待しているのである。
しかしチョギャム・トゥルンパが教え、開示した智慧以上の真の智慧などは存在しないのだ。彼によれば、智慧というものは完全な体験から引き出されるものである。それがどんな体験であろうとも。スピリチュアルな道がめざすのは、若者が想像してしまいがちな、人生の情熱が超然とした境地に変わるような、霊妙な地点ではなかった。それはとても人間味あふれる道だった。
「皮相な観点から言えば、スピリチュアリティというものは、基本的に物事とうまく調和することです。しかし何というか、このアプローチではうまくいきません。争いが発生したり、変動が起きているときに、物事と調和したり、活動を控えめにすることはなかなかできません。なんとか生き抜こうとしたり、お金を得ようとしたり、もっと食べ物を、もっと部屋を、頭の上にせめて屋根を、と求めているときにはむつかしいのです」
アメリカに渡る前、チョギャム・トゥルンパは英国で教えていたが、わずかばかりの熱心な学生しか惹きつけられなかった。しかしその「わずか」は、彼が何を提供できるか理解していた。人々は彼にステレオタイプの「東洋の賢者」のようにふるまうのを期待していた。それがひどく偽善的であることが彼にはわかった。彼に役割を演じてもらいたいということは、彼が言っていることと本当の接触を避けているということだった。彼は英国滞在の時期をつぎのように描いた。
「最初、私は魅力的な対象だった。それは余計なことをしなかったし、しゃべらなかった。しかしひとりの人間というより、新種の珍しい生きもののように見られていた。オクスフォードにラマがいるらしいから見に行こう、そんな扱いだった」
チョギャム・トゥルンパは人生を通して、社会の一般的な常識にあわせることを拒んだ。
インドやチベットでは、何世代にもわたって、実践者がブッダの教えを不滅のものとするため人生を捧げてきた。西欧では、そのような努力がもたらすのは、わずかの排他的な「正しい考え方」のサークルのために、伝統的な継承者がパフォーマンスを見せるエキゾチックな人物となってしまうことだった。これはブッダが教えたことなのか? チョギャム・トゥルンパの心の中では、答えはあきらかにノーだった。
チョギャム・トゥルンパはおおいに敬意を払われていた英国に、多くの弟子をもつことができたはずである。そしておなじ境遇の亡命者がそうしたように、安楽な生活を送れたはずである。しかしそれは彼が望んでいたことではなかった。彼が熱望していたのは、ブッダの教えをその真正なかたちで、彼が学んだことを残らずすべて紹介することだった。このためにはすべてをなげうつ覚悟だった。彼はだますことはできなかった。会った人々と直接交流ができるように、宗教的なステータスをもないがしろにするつもりだった。このようにして彼は学生たちの日常生活に入っていったのである。初期の生徒のひとり、チャック・リーフはチョギャム・トゥルンパがボストンの彼の家に泊まったときのことを覚えている。彼は皿洗いをするなど日常の家事を手伝ったという。
チベットの高僧に課せられた形式的な義務や儀式を知っている者なら、だれでもこのことを聞いて驚くだろう。チョギャム・トゥルンパは彼の玉座、召使い、高僧に課せられたすべての儀礼をあきらめたのである。これらチベットの文化がアメリカでの新しい生活のなかでは意味がないことを悟ると、彼らはそれらすべてを捨てる決心をした。
仏教の教えはすべてを捨てることの重要性を説いている。そのような放棄は自由の前提条件である。チョギャム・トゥルンパはこの基本的な教訓をシンプルに教えることはなかった。彼自身、もっとも典型的な見本だったのだから。彼は人の心により直接的に触れるため、彼自身の文化、背景、習慣をなげうった。
アメリカでの最初の数年間、セミナーに加えてメジャーな活動としてあげられるのは、彼と会いたい人全員と直接接触することだった。それは面接、晩餐、パーティ、「出会い」などである。当時チョギャム・トゥルンパは通りに出て、人々を呼び止め、瞑想や仏教について知っているかどうかたずねた。もし彼らが彼に質問をしてきたら、すぐに彼は答え、瞑想の仕方を説明した。そして彼自身の本『行動のメディテーション』を渡した。彼はいつもこの本を持ち歩いていた。
彼は国の政治情勢や社会生活からは遅れないようにし、あらゆることに興味を持って人々に質問をした。彼はすべての人の生活に注意を払い、生徒たちには彼の英語がただしいかどうかチェックするよう頼んだ。彼はこうして彼らの友人となった。