4 精神的物質主義を断つ 

ブータンでのリトリート(隠棲)、そして一般化した精神的物質主義を認識すること 

 

1968年にブータンでリトリート(隠棲)生活を送ったことは、チョギャム・トゥルンパの人生において決定的な意味を持つことになった。何年ものあいだ、チベットで、インドで、そして英国で、真の精神性の堕落の広がりを見て、また正統な仏教を自身があきらかにすることができないことについて、極度のフラストレーションを感じるようになった。

 

 いまは暗黒の時代のもっとも暗い時間である。病気、飢餓、戦争が激しい北風のように吹き荒れている。ブッダの教えは次第にその力を失いつつある。サンガ(僧伽)のさまざまな教派は、彼ら自身の内部でセクト主義の苦渋と戦っている。

ブッダの教えは当時、完全に説明された。しかしそれ以降、多くの信頼できる教えが偉大なるグルたちによって示されてきたものの、いま、彼らは知的にどう見せたらいいかということばかりを気にかけている。聖なるマントラは道をはずれてボン教となり、タントラ行者たちは瞑想の智慧を失いつつある。

彼らは大半の時間を、村々をめぐり、物質的な報酬を得るために小さな儀礼をおこなうことに費やしている。見回しても、もっとも高度な修行や瞑想、智慧にしたがって行動している者などいない。日に日に宝石のような教えは滅びつつあるのだ。ブッダの教えは政治的目的のために、また社会的に人々を惹きつけるためにのみ使われているのが現状である。

結果として、授かりものとしてのブッダの教えの精神性は消えつつある。信仰心の篤い人々でさえ、心から信奉することはなくなってきている。もし三世のブッダと偉大なる師たちが話すことができるなら、大いなる失望を表明することになるだろう。

 

 チョギャム・トゥルンパのこの絶望的な状況に向かい合おうという試みは、彼の著作全体に通じて見られるものである。リトリート(隠棲)の最初にはすべてのものが通常に見える。しかしチョギャム・トゥルンパは次第にフラストレーションを募らせていく。というのも彼は霊的なインスピレーションを求めているのに、いっこうに何も起こらないからだ。霊的な力を起こすために何をすればいいのか、彼にはわからなかった。

ある夜突然、彼は深遠なる霊的インスピレーションを得る。そして『物質主義の三神の破壊力を鎮めるためのマハームドラーのサーダナ(修行)』を書き始めたのである。この序文が上に引用した文章である。

 このリトリートによって彼は根本から変わった。彼はいまや、それを名づけたり、処理したりすることができないとしても、東洋、西洋において見てきた、われわれ現代の苦悩と向かい合うことができるのだ。彼が仏教を人々に示そうとするとき、つねに障害物となったのはまさに精神的物質主義だった。

 多くの観察者がそれぞれの理由をもって現代の物質主義を批判した。たとえばフランスの形而上学者ルネ・ゲノンは『現代世界の危機』(1927)のなかで「今日、だれもが夢中になっているものは物質的なものになりつつある」と述べている。彼の定義によれば、物質主義的であるとは、意識的に物質世界の中央にいることであり、それに夢中になることである。

「現代文明は、まさに量的文明と定義されるものである。これは物質的文明であるというのを別の言い方で言ったにすぎない」とゲノンは述べる。「もしこの真理に確信を持ちたいなら、民衆や個人が存在するために、経済がいかに重要であるかを調べるだけで十分である。工業、商業、金融、重要なものはこれらだけのように思われる。すでに指摘したように、唯一残っている社会的区別は、物質的な富を基盤としているのである」

 チョギャム・トゥルンパは物質的な慰めを基本とするのではなく、もっと微妙で、危険な形ではあるが、物質主義を根絶する必要があるということを知っていた。