物質主義の三王 

 1973年刊行の『精神的物質主義を断ち切って』のなかでチョギャム・トゥルンパは物質主義の三側面を区別し、「物質主義の三王」と呼んだ。私たちはつねに「形の王」「言葉の王」「心の王」にだまされているのだ。これら3つの要素は、私たちと世界の関係の隠喩である。

 「形の王」は、慰めと安心を得るために私たちが試みるあらゆる努力のことである。それは、不公平で、厳しく、予測不能という人生の側面にたいし、私たちはいらだちを覚え、物理的な環境を操作しようとすることを含んでいる。たとえばプッシュ・ボタン式エレベーター、ビニールパックの食肉、エアコン、水洗トイレ、葬式、定年退職後のプログラム、商品の大量生産、天気衛星、ブルドーザー、蛍光灯の照明、9(ナイン)to5(ファイブ)の仕事、テレビ……これらはすべて管理できる、安全で予測可能な、たのしい世界を創造する試みである。こうしたことのために、つねに私たちは富を追い求めることになる。

 しかしながら極端な禁欲主義もまた、物質主義の一種と言える。あなたは多くのものを捨て、極端に厳しいライフスタイルを自分自身に課す。ただし自己中心主義を捨てることはできない。そしてより大きな慰めを得ることを目的としている。世界をコントロールしたいという欲望、そして物理的な環境にたいし、気に入らないものを除去したいという考えも物質主義である。

 「言葉の王」は、宇宙をよりよくコントロールするために知性を使うことである。まるで現象をコントロールすることができる操縦桿のように、私たちは「概念」を用いている。それを通して私たちは世界を見ているのだ。それは、現実をダイレクトに受容するのをブロックするフィルターである。私たちが安全だと感じる世界を維持するために、やってくるものすべてをチェックする。こうした考え方では、いかなるイデオロギーも教義も物質主義的になってしまうだろう。民族主義、共産主義、存在論者、カトリック教徒、仏教徒……これらのイズム(ism)は、私たちの病への偽薬にすぎない。

 もっとも洗練された王」である「心の王」は、他の二つの「王」の状態へと巧妙にけしかける。それはスピリチュアルな欲求をより意識的なものへ、「気づき」へと変えているのだ。一般的に、瞑想や霊的な修行の方法はさまざまあるが、その目的は、満足や幸福に至ることである。それは「こうでありたい」と考える姿にしたがって生きるということである。一方で純粋なスピリチュアリティは、自分自身や世界への現実的なアプローチに基づいている。

 これら三王を分析することによって、すべてのものは物質主義のために使われうることがわかる。そして私たちの劣化した時代を特徴づけるゲノンの言葉を使うなら、量の支配としてそれほど単純ではないのだ。物質的な慰めの欲求、世界を理解しようと言う知的な努力、スピリチュアルな体験、これらは内在する問題というわけではない。自分たち自身を強固な存在にする欲求、あるいは恐怖や不安から逃れたいという欲求が動機づけの場合、それらは問題となるのである。物質主義は、私たちが改善しうる存在であるという考えから成り立っている。私たちはどういうふうに自我を解き放つか、どういうふうに心を開くか、自身に聞く。しかし「最初の障害物は質問それ自体」なのである。それなら「どうすればいいのか。もし自分自身に質問しないなら、そして自分自身を観察しないなら、ただ実行すればいいのである」

 物質主義の3つの形態は、自我がその存在を再確認させて骨を折ったことから派生したものである。仏教において、自我という言葉は西欧の心理学で用いられる自我とは意味が異なっている。存在の強固さを証明するというならそれは幻影である。この意味において自我とは真の実在ではない。しかしそのかわりにあるのは、習慣と混乱の積み重ねと、希望、恐怖、夢の組み合わせである。私たちの世界との関係はこのように、起きていることが有利かそうでないかをチェックするフィルターを通るのだ。そのような考え方において霊的な探求をするということは、自我を満たすだけの個人的な欲望にすぎない。そこでは反対に、真に存在するもの、そして自我を屈服させ、除去する方法を教えるものにたいして私たちはより深く開かれていなければならない。

 仏教のもっとも基本的な教えのひとつによれば、努力の焦点のなさが三王を喜ばせているという。チョギャム・トゥルンパの生徒のひとりペマ・チュードンはつぎのように述べている。

「すべての人類のなかに、もっともよい生き方は苦痛を避け、安楽を得ようとすることという、一般通念な誤解がある」

正直でいて、苦悩の現実を認識することが、進んでいくための唯一の方法である。霊的な方法は個人的な体験となるだろう。

 私たちの時代のカタストロフィは、真のスピリチュアリティと物質主義の区別が難しいことである。この両者のあいまの混乱は時代の徴である。