やっかいな精神の物質主義 

 精神の物質主義はいかなる真の精神的な道にとっても障害物となる。

「数えきれないほどの脇道があり、それらは曲がった、自己中心的なスピリチュアリティに通じている。私たちは自分をだまして、精神的なテクニックによって自己中心性を強めながら、私たちは精神性を発展させていると思い込んでしまっている」

 このような批判は西欧に向けられたものではない。多くのチベット人や西欧人がチベットに牧歌的なイメージを描き、そこでは人々が覚醒の道を歩んでいると思い込んでいる。しかしチョギャム・トゥルンパは、なおも生まれた土地にこだわりをもちながら、そこにも腐敗がはびこっていたと述べている。

 1975年、「すべてのシッダ(成就者)の化身」という題がつけられた「マハームドラーのサーダナ(修行)」に捧げられたセミナーのなかで彼は説明した。

「私の国ではじつに多くの人が精神的問題をかかえている。人々は小さな精神的ビジネスに精を出している。結婚式や葬式、病人のための儀礼といったたぐいだ。彼らは不幸な人々のために儀礼をおこなう。しかし真の実践というものはおこなわれていない。それは不正の金儲けみたいなものだ」

 物質主義というものは、とくにスピリチュアリティをまとったものは、現状としては東洋も西洋も変わらないのである。

 1970年代の米国の状況は、巨大なスーパーマーケットのようなものだった。あなたはそこに入ることができ、想像力を駆り立てるものを手に取ることができる。本物の伝統の気が抜けたバージョン、すなわちドラッグ、にせグル、その他さまざまなくわせもの、禅やヒンドゥー教のようなもの、あるいはチベット仏教ごときものまで。当時の多くのグルたち、とくにインドから来たグルはこうしたトレンドを作り出していた。こうして彼らは彼ら自身のテリトリーを作りだし、彼らの弟子を確保した。信者たちにとって、彼らは究極的な幸福をもたらしてくれる存在だった。こうしてグルと信者とのあいだに密約のようなものができた。チョギャム・トゥルンパが批判したのはこの点である。

 米国に着くと、彼はこのことに関しつぎのように言った。

「スピリチュアルなものへの人々の関心は相当に強くなるだろう、なぜならそれがこの世紀の特徴だからだ。物質主義の奔流は土手を壊すことだろう。ちょっとした小物類や機械だけでなく、精神の物質主義も、市場における牛乳のようにありふれたものになってしまうだろう。20世紀はエゴの世紀なのだ」

 チョギャム・トゥルンパは米国にやってくるスピリチュアルなグルたちは、それがあってはじめて自己中心主義をそぎ落とすことができる真の修行を提供することができないと感じていた。彼らのアプローチは不完全だった。彼はまた白衣を着て、ベジタリアンであり、やさしく話すことによって修行していると称する人々を批判した。こうしたアプローチのすべてがスピリチュアルな傲慢さを隠すためのものだった。

 チョギャム・トゥルンパはこうして、最初の数年間のティーチングにおいてキャンペーンをおこなった。彼自身が発行した雑誌「ガルダ」の最初の号(1971年)に、「物質主義を超越して」と題したこれとおなじテーマの重要な記事を寄稿している。環境がどうであれ、彼は物質主義を攻撃する手を休めなかった。

 郵便を通じて彼に寄せられた質問に彼はこたえている。みずがめ座の時代についてどう思うかと聞かれ、「この表現法について聞いたことはありますが、それが特別な意味を持っているとは思っていません。未来を予言するのは僭越かもしれません。しかしいま起こりつつあるのは、この新しい時代が発展して超物質主義の高みに達しようとしていることです。そしてこのあいだにも、人の探求は終わらないということです。

 どこにおいても、彼は目撃した神秘化されたものの正体をあばきました。かつて、どこかの晩餐会で、極端に優雅だが、すこし間が抜けた女性がやってきてたずねました。

「リンポチェ、私のグルは白ターラの瞑想法を教えてくれました。しかし彼はそれが何か説明してくれなかったのです。白ターラって何ですの?」

 するとチョギャム・トゥルンパはこたえた。

「それはコテージ・チーズです」

 それから沈黙が流れたあと、彼はほかの皿を指差しながら言った。

「緑のターラはホウレンソウのことです」