4 セチェンのジャムゴン・コントゥルと「師・弟子」の関係
師の重要性
チョギャム・トゥルンパの最初のトレーニングは基本的に論理的なものだった。仏教の教えの中核部は師から弟子に伝えられたが、本質的なものはまだ与えられていなかった。
西欧人には、スピリチュアルな師が何を象徴しているかを理解するのはむつかしいかもしれない。グルの存在がタントラ仏教の要であること、西欧の宗教にはそれに相当するものがないことは最初に理解しておく必要がある。
「そのような師がなかったら」とチョギャム・トゥルンパは説明する。「われわれは世界を適切に、徹底的に経験することができない」
師は何かについてこれ以上の説明はないだろう。エゴ(自我)はかくも盲目であり、導き手なしでは、自由であること、現実世界の本性を認識することはできない。
しかしながら師は石に彫られた静的なものではない。彼(彼女)は弟子が進歩するために異なる役割を担う。
第一に、師はインストラクターであり、教師である。ダルマ(仏法)は師とのダイレクトな、個人的な関係なしには理解されない。このことはしばしば誤解される。それどころか基本的なレベルにおいて、われわれは受け入れられないこともある。劇場で華麗に劇が演じられるのを観たときのことを考えてみよう。それは絶対に家で本を読んでいるのとは違っているはずだ。書かれた言葉はまったく異なる相貌を見せることだろう。スピリチュアルな世界においては、かなりの度合いで、教えは純粋で、いきいきとしたものになり、師と個人的に接することで溌剌としてくるだろう。
つぎの段階で、師はわれわれの根本にある本質と深い関係になり、そして心の状態のなかに入り、カリヤナミトラ(kalyanamitra)、すなわちスピリチュアルな(霊的な)友人になってきたととらえる。こうして彼と弟子との愛すべき関係がはじまる。
最終的に師は弟子のヴァジュラ・マスター(金剛阿闍梨)、すなわちグルとなる。サンスクリット語でグルは「重い」を意味し、よい質がいっぱいで重いことを表している。チベット人はラマという語を用いるが、それは「上にいる者」を意味している。つまり、上から弟子の状態が俯瞰でき、そして彼らを正確に導くことができる人という意味である。ひとりのグルでは尊敬する価値がないかもしれない。彼は直接体験した、覚醒した魂を具現化する。彼は現象世界のスポークスマンである。
「師はあなたの感覚、あなたの思考、あなたの混乱をありありと見せる。あなたには赤色が赤色に、金色が金色に、黄色が黄色に、青色が青色に見える。あなたにはこの痛みの感覚がひどい痛みに感じられはじめる。楽しみがたいへんな楽しみに感じられはじめる。真の現実が起こる体験というものがある。
師なしでは、覚醒が、限界を超えた体験というよりも、われわれが得たいと願う対象物となってしまう。
チベット仏教においては、覚醒というものは、他者のために奉仕したいと思う人間のなかでは明確である。師に関する根本的な点は、彼が知識を持っているかどうかではないということだ。そうではなく、師が弟子とのもっとも深い関係にまで入っていけるかどうかということなのだ。こうしたことから、彼は肉と血からできていないといけない。そしてこのように、彼はわれわれの苦悩、われわれの喜びを、個人的に体験できなければならない。
同時にグルは、内なるグルのたんなる現れであってはならない。真の師はわれわれ自身の基本的な知性にほかならない。外的なグルの使命は、弟子に、内なる存在の師、すなわち、すべての人間のなかに存在する、普遍的な原初の智慧と触れ合うことを許すことである。