大ジャムゴン・コントゥルとリメ運動と腐敗の非難 

 チョギャム・トゥルンパの教師は、チベット仏教史上の巨人である有名な大ジャムゴン・コントゥル(18131899)、またの名ロドゥ・タイェの転生であるセチェンのジャムゴン・コントゥルだった。

 彼の仏教における決定的な影響力を考えると、大ジャムゴン・コントゥルについて少しは触れておくべきだろう。チョギャム・トゥルンパは、彼に言及するときはいつも最大の敬意を払い、教えを説くときはしばしば彼に全幅の信頼を寄せて引用した。その情報源を理解せずにトゥルンパの著作を理解するのは不可能だった。

 大ジャムゴン・コントゥルは、カム地方の知性と芸術の心臓部に位置するデルゲ地方に生まれた。チベットの土着の宗教であるボン教を名ばかりの父から学び、伝統医学を習得したあと、彼はセチェンのニンマ派の寺院へ行き、そこで1829年に戒を受けて正式に僧侶となった。

 1833年、彼はパルプンのカギュ派寺院に送られたが、そこで根本グルと出会う。彼はそのときもう一度戒を授かってはどうかと聞かれ、結局いやいやながらそのとおりにしたと、当時を思い出しながら語っていたという。なぜ二度も戒を授かるのだろうか? 彼はさまざまな宗派の間の結束のなさが理解できなかった。このことそのものが仏教の本質に反しているのではないかと考えた。おなじゴールをめざしているはずの宗派の間に争いがあるのは、どういった理由からなのだろうか。大ジャムゴン・コントゥルは意見の違いを乗り越え、仏教のもっと開かれた形を回復することをおのれのミッションとした。

 19世紀のチベットでは、仏教の教えは空論ばかりになり、あまたの議論が生みだされていた。それは深刻な腐敗の前兆だった。チョギャム・トゥルンパがしばしば説明したように、チベットは外国との関係を断って鎖国状態にあり、外国から偉大な教師を招くということもなかった。自ら閉じてしまったのである。

「そのような雰囲気のなかで、精神的物質主義が蔓延するようになった。寺の住持や偉大な師たちにとって気がかりなのは、寺院の上の立派な黄金の屋根であり、巨大な仏像を建てることであり、彼らの法統の実践ではなく、寺院を美しく荘厳に見せることだった。彼らは坐って経典を読んだり瞑想修行したりするよりも、立って商売をするのに忙しかった。大ジャムゴン・コントゥルは堆肥のなかの宝石のような方だったのだ」

 ジャムゴン・コントゥルはさまざまな宗派を代表する135人の師から学んだ。おなじく脱宗派主義の考えを持つジャムヤン・キェンツェ・ワンポ(18201892)のように、ジャムゴン・コントゥルは何年間もチベットを旅し、無数の実践法、教え、さまざまな仏教の伝統や法統のイニシエーションなどを集めた。それらの多くは消失していた。ジャムゴン・コントゥルとキェンツェ・ワンポはこれらの教えを注意深く150巻(5つのコレクション)にまとめた。将来の世代のために、彼らは伝承しつづけることを保証した。膨大な量の教えを忘却から救い出し、保存し、守ったことから、チベット全域で仏教の純粋な復興運動が起こった。

 そこからリメという超宗派運動がはじまった。この考え方はすべての要素をひとつにまとめるのではなくて、宗派それぞれの特に豊かな部分を保存し、伝播し、すべての宗派全体の伝統を活性化していくというものだった。リメ運動が果たした決定的な役割は、イニシエーションを単純に集めるかわりに瞑想、隠棲修行実践、覚醒に重きを置いて復興を促したことだった。大ジャムゴン・コントゥルはトゥルンパ10世の師であり、この教えが完成したとき、トゥルンパ10世は順繰りに、大ジャムゴン・コントゥルの二人の転生であるパルプンのジャムゴン・コントゥルとセチェンのジャムゴン・コントゥルのグルとなった。

 パルプンのジャムゴン・コントゥルはカルマパ15世の息子だった。だれもが驚くことに、15世は結婚し、子供をもうけたはじめてのカルマパだった。

 セチェンのジャムゴン・コントゥルに関して言えば、チョギャム・トゥルンパは彼のおかれた状況をつぎのように描写している。

「セチェンのジャムゴン・コントゥルはたいへんな茨の道を通らなければならなかった。彼は大ジャムゴン・コントゥルの転生と言われていたが、同時に、だれも彼に物質的な言質を与えて彼を迎え入れてくれることはなかった。彼はセチェン寺院の僧たちの家々のまわりでテントを張りながら日々を過ごして人生を終えることになってしまった。一定の俗人や僧侶たちは「コントゥルを助ける会」とでもいうような団体を作り、「今夜はどこどこの僧のところに泊まってもらおう」とか「だれだれに食事の世話をしてもらおう」などと決めた。彼が乗る馬や服を必要とするときは、「コントゥルを助ける会」がお金を集めてそれらを購入した。セチェン寺のなかではジャムゴン・コントゥルを助けようという動きも見られた。放っておいたら路頭に迷うことになりかねなかったからである。最終的に、ギャルツァプ・リンポチェが寺院の住持になったとき、状況を見てセチェンのジャムゴン・コントゥルのための本部を設置した。

 セチェンのジャムゴン・コントゥルは25歳になるまで、カギュ派とニンマ派の瞑想修行の厳格な実践に身をささげた。そしてそのあとは、寺院の精神面の指揮を執ることになった。

 チョギャム・トゥルンパに戒を授け、最初に教えを与えたのはパルプンのジャムゴン・コントゥルだが、トゥルンパの筆頭の教師となったのはこのセチェンのジャムゴン・コントゥルだった。このようにして真正の精神的伝統は生きたまま守られた。真の教えは書いたものによって伝えられることはなかった。身体的に、感情的に、精神的にいっしょに歩む者同士のふたりの間にのみ伝授はありえるのである。これを満たした出会いがあってこそ、教えは真に体現されるのだ。つまり教えを受けるとき、それはダルマ(仏法)そのものとなるのである。こうした師との特別な関係を通したからこそ、チョギャム・トゥルンパは、困難な道を進んで弟子たちを覚醒に導く、成就した修行者になることができたのである。

 師の役割は新奇なものである必要はない。しかし彼が受け取ったものをできるだけ正確に伝達する必要はあるだろう。しかしながら、教師は伝統の後ろに隠れることはできない。彼の役目は、与えられた遺産をいかに深く統合してきたか、また彼が十分に理解することができたかどうかを見ることである。それについて説明するとき、彼自身の体験とコミュニケーションを取ることができるだろう。この体験は、先達者の教師たちの体験と次第に分かちがたくなる。教師は教えそのものであり、これによって彼は尊い存在となるのである。