セチェンのジャムゴン・コントゥルとともに 

 チョギャム・トゥルンパは数度のセミナーで彼の師との関係について説明した。それは彼がたどった道を理解する貴重な機会を与えてくれた。チョギャム・トゥルンパはよく使う表現をやめ、彼の教育についていきいきと描いたのである。

 彼がドゥツィ・テルを訪ねていたセチェンのジャムゴン・コントゥルにはじめて会ったのは、9歳のときだった。はじめて見るや、子供だったトゥルンパは心を動かされた。

「彼は図体が大きく、ほがらかな人物でした。地位に関係なく、だれに対しても友好的で、とても寛容で、ユーモアのセンスがありながら、深い理解力があるのがわかりました」

 精神的な達成度がしばしば何か真剣で厳格なものとしてチョギャム・トゥルンパに示されたので、彼は驚き、このような成就した人はのびのびとしていてユーモラスであることがわかって安堵した。ジャムゴン・コントゥルは「法外なほどのびのびとしていて、人々を困惑させたほど」だったという。聖性というのは聖なるものになることでも、超人でもなく、純粋で、単純に人間であるということだった。チョギャム・トゥルンパはこの最初の授業をけっして忘れなかった。

 寺院を訪ねている間、ジャムゴン・コントゥルは彼に瞑想修行の究極的なシンプルさについて教えた。チョギャム・トゥルンパが覚醒とは何かとたずねたとき、彼はこたえた。

「まあ、覚醒なんてものはないんだけどね。そんなところだ」

 この最初の出会いから数年後、チョギャム・トゥルンパは自身の寺から十日ほどの距離にあるセチェンに行って、彼のところで学ぶ決心をした。13歳の誕生日のまさにその日、彼はセチェンに着いた。

 厳しい教育期間を経ると、彼はどんなテーマに関しても、論理的な議論をかわすことができるようになっていた。彼はできのいい生徒だった。しかし教師は成都をほめそやすどころか、不満でいっぱいのように見えた。チョギャム・トゥルンパは何が悪いのかわからなかったが、教師は最後に言った。

「おまえは自分の足元を見るべきだ。おまえはできのいい論理屋の戦略家かもしれないが、いまこの国で戦争が起きているわけでもないんじゃ、だれも雇ってくれないだろう。ま、よく考えるんだな」

 チョギャム・トゥルンパによれば、このことがあってから、純粋に論理性だけで評価するのではなく、教えを体験的に理解することができるようになったという。

 彼の教えのなかで、ジャムゴン・コントゥルは、私たちがすることの意味を理解する重要性、機械的に勉強しないこと、修行しないことの重要性を強調している。彼はまた、牛乳屋であるかのように勉強する人々の態度を批判した。たとえば、市場で瓶の中を味見することなく牛乳の入った瓶を売る人々がいる。彼らはまた乳牛に触ったこともない。この教えは、要点をつかむまでレッスンを繰り返す知的な修練過程のことだけを言っているのではない。

 あるときジャムゴン・コントゥルは自分の生徒に言った。

「何かが間違っている。おまえはもちろん丁寧な言葉遣いをしているが、教師が何であるか根本的によくわかっていないようだな。純真すぎるのだ。何かもっと高度な、もっと奥深いものを実践したいようだが、そんなものはないのだ」

 チョギャム・トゥルンパはショックを受けた。教師が彼を混乱させようとしているのかどうかわからなかった。なぜならより高度な教えを求めたりなどしていなかったからだ。あるいは本当に彼が何か間違ったことをしていると言いたかったのだろうか。実際、問題はチョギャム・トゥルンパが、教えを受けるために、不安を断ち切り、エゴ(自我)を適応させることができていなかったことだった。彼はジャムゴン・コントゥルに、長期間修行すべきか、あるいは断食のような苦行をすべきかどうかたずねた。ジャムゴン・コントゥルはそれにこたえて言った。

「いや、必要ない。それ以上にやるべきものがあるのだ」

 そのときチョギャム・トゥルンパは、深奥な仏教哲学、マディヤマカ(中観)を学びたいという意向を師にたいして示した。これで師がいわんとすることが理解できるようになると思ったのである。しかしジャムゴン・コントゥルはそれを聞いてむしろ失望してしまった。

「おまえは本当に何かを会得したいようだな。しかしそれは思慮深い伝統のやりかたではないのだ」

 最後にようやく、チョギャム・トゥルンパは要点をつかんでいないことを理解し始めた。彼の献身的な態度に問題はなかった。ただ信仰心が篤すぎたのだ。彼が堂々と、芯のしっかりしたアプローチをすることで純粋な体験を得ることは間違いない。このときに彼は自由の本当の意味を発見した。それは奥深い安心だった。

 ある日チョギャム・トゥルンパとともにセチェンに来ていた教師のアポ・カルマは、セチェンのジャムゴン・コントゥルに最後の教えを請うべきだと言った。このようにして彼らアはスルマンに戻り、この奇妙な寺院に長居をしないようにしたのである。アポ・カルマはチョギャム・トゥルンパに白いスカーフと金貨、そして何かを要求するときに必要とされるものをそろえて渡した。

 チョギャム・トゥルンパは教師に言われたとおりのことをしぶしぶおこなった。しかしジャムゴン・コントゥルは愚か者ではなかったので、伝説的とさえ言われるユーモアあふれる表情を浮かべて彼のほうを見つめると、陽気に高笑いした。即座に彼は言い放った。

「おい、おまえ、先生に言われたことをそのまま鸚鵡返しに言っただけだろう!」

「ええ、そうです。先生がこう言えっていうんで。これ以上長くここにいると、家に戻れなくなってしまうっておっしゃるんです。わたしたちの蓄えも少なくなってきました。季節は変わろうとしています。もう少ししたら旅ができなくなります。先生はもう一年ここですごすのがおイヤなようなのです」

 ジャムゴン・コントゥルは怒っていた。彼は教師を呼んだ。教師はといえば、最後の講義に呼ばれたのだと思って喜んだ。

 彼はぷんぷんと怒りながらチョギャム・トゥルンパのところにやってくるとこう言った。

「おい、全部しゃべったのか? 外交ってものを知らないのか? 死ぬほどリンポチェの教えを聞きたいとだけ言うべきなのだ」

 チョギャム・トゥルンパは小さいころから偽善が大嫌いだったのである。

 長年断続的にジャムゴン・コントゥルから学んだあと、延期していたものの、syry万へ戻る時が近づいてきた。チョギャム・トゥルンパは聖なる仏典について書いた論考を師に見せた。彼自身のスタイルを見つけたので、彼は誇りを持っていた。ジャムゴン・コントゥルは彼を勇気づけ、言った。

「これからはだれかにたずねて了承を求める必要もないだろう。すでに法統の継承者なのだから」

チョギャム・トゥルンパは突然パニックに陥った。

「これはこの人生ではもう会うこともないという意味なのでしょうか。わたしを見捨ててしまうのでしょうか」

「いや、いや」とジャムゴン・コントゥルはあわてて彼を落ち着かせようとした。「中央チベットまで来て私を訪ねなさい。インドにいっしょに行こうではないか。状況によっては私は先に出発するかもしれない。その場合はあとで追っかけてきなさい」(ジャムゴン・コントゥルは中国の追っ手から逃れようとしていた)

 これが彼の最後の言葉だった。ジャムゴン・コントゥルは中国の官憲によって捕らえられ、牢獄に入れられ、その後姿は見られなかった。

 しかしチョギャム・トゥルンパはその記憶をいつまでも保っていた。セミナーで彼は説明した。

「彼は私の騎手です。9歳のときから彼は私を調教してきました。私はもう十代の馬ではなくて、若駒という感じでした。いまも彼が私の騎手であるように思われます。そう感じるだけでなく、本当にいつでも乗っているのです」

 1967年、スコットランドで、チョギャム・トゥルンパはグルを呼び出す歌を作った。その「智慧の太陽のサーダナ」にはつぎのように歌われている。

 

師よ、あなたの立ち居振る舞いはまるで子供のよう 

それはあなたの内面が抑圧されていないしるし 

あなたは超越した智慧の持ち主 

それは欲しがったり、ためらったりすることはないということだ 

あなたは純粋で、差別することのない目で 

すべてを見ることができるヨーギ(修行者)である 

いますぐにあなたの恵みの雨を降らせてください 

 

師よ、あなたはたとえ低次のものであっても愛するお方 

傲岸や高慢にとらわれることはない 

あなたの慈愛の心はだれよりも深く 

ご自身よりも他者を愛しているほどである 

師よ、無数の星のなかの満月のようなお方よ 

なによりも美しいお方よ 

あなたは泥濘(ぬかるみ)のなかに咲いた蓮の花

サムサーラ(輪廻)とニルヴァーナ(涅槃)を超えたお方 

 

師よ、汚れのない宇宙へ行かれたお方よ 

残されたあなたの子供である私や兄弟は 

暗闇の時代の泥濘に沈みつつある 

悲しみに暮れてはいるけれども 

本物の信仰からなる宇宙では 

母親にたいして泣きわめくひとりの子供の歌である 

哀しみの渇望のこの歌で 

ゆるぎない信仰で 

真のグルよ、私はあなたを呼ぶ 

あなたの光輝く智慧の身体の

偉大なる光を降らせてください  

あなたの自ら存在する心の灌頂(アビシェーカ)を 

私たちに授けてください