5 チベットを離れる
学校の増設とケンポ・ガンシャル
スルマンに戻ると、チョギャム・トゥルンパは精神的指導者として責任を担うことになった。チベットでは不穏な動きが生まれつつあったが、彼はドゥツィ・テルに新しい学校を建て、ほかの寺院の僧侶を受け入れる決定をした。『チベットに生まれて』のなかで彼は説明している。
「たとえ共産主義者がこの地域全体を破壊したとしても、われわれの心の中の知識の種をも破壊することはできない。今日建物を建てて、明日建物が倒されたとしても私は後悔しない」
この計画を実行するために、彼はその妥当性に疑問をもつ長老たちと対峙しなければならなかった。生涯を通じてチョギャム・トゥルンパは「常識」と対決しなければならなかった。「常識」の目的は彼が実行に移そうとする壮大なヴィジョンに反対することだった。彼はけっしてくじけることがなかった。
1955年、チベットの現状について話し合うために、パルプンで法統の長であるギャルワン・カルマパと会ったさい、チョギャム・トゥルンパは計画をつまびらかにした。カルマパは彼の使命を果たすことができるよう勇気づけた。確信を得たチョギャム・トゥルンパはスルマンの長老たちを説得し、1958年に建物を完成させた。彼にとっては、このプロジェクトを実行するのは、アイデアをはじめに提示したトゥルンパ10世の願いを成就するということだった。
しかし重要な決定のひとつが不活発な動きによってはばまれ、教え方をも刷新しようという目論見があることが明らかになった。チョギャム・トゥルンパは援軍を求めて、ケンポ・ガンシャルを招いた。ガンシャルは学校の長であるとともに、彼自身の家庭教師ともなった。
ケンポ・ガンシャルが幼少のころからジャムゴン・コントゥルによって育てられてきた。ジャムゴン・コントゥルは彼を宣せ院的な息子とみなしていた。『インドの仏教聖者』の著者レジナルド・A・レイは彼についてつぎのように述べている。
若い僧侶であったケンポは、学問面では激しく勉強し、ヴィナヤ(戒律)を順守することにおいては厳格で、じつに誤りがないことで知られていた。しかし重い病にかかり、生をあきらめ、息を引き取った。遺体は小さな部屋に安置された。しかししばらくのち、突然、劇的に彼は死から生還した。彼は跳ね起きると、小部屋を突き破って外に出た。
そのときから彼はまったく別の存在になったかのようだった。彼は女性の伴侶を見つけ、戒を捨て、奇矯な行動を取るようになった。彼は人を見ると、瞬時にその内面の考えを読むことができたという。多くの人が彼と会っただけで、彼が成就者であることを知り、弟子や崇拝者になった。他の人たちは彼の奇妙なふるまいに困惑し、煩わしく思った。あるいは彼がいるだけで不快に感じ、批判し、避けるようになった。
ケンポ・ガンシャルは、安全だと信じ込んでいる見方、または人々が建設した世界をひるまず、ひっくり返した。覚醒したあと彼はオーラを放つようになった。それは人々を、いた弟子や中傷する者たちをも震え上がらせた。そして伝統的な基準に照らしても、不道徳なこともするようになった。
日々増大する中国の弾圧に直面していたケンポ・ガンシャルは、僧侶たちへの教育の制限を取り除いた。地域のすべての住人が、僧侶であろうと俗人であろうと、ダルマ(仏法)を学ぶことができるようにすべきだと彼は考えた。しかしすぐに公に教えることができなくなってしまった。このような状況下では、普段の形式や特殊な儀礼ではなく、極端なほどダイレクトに仏教の教えの真髄を示す必要があった。
彼は利他主義と慈悲の心の重要性を強調した。ダルマ(仏法)が脅威にさらされている状況のもとで、教義は役に立たず、重要なことはすべてが経験だった。彼はつぎのように説明した。
「引用はそれ自体何の役にも立たない。われわれは心から経典を繰り返し読むことができる。あなたは行動によって思いやりを示さなければならない」
驚きだったのは、仏教徒の大衆を前に教えの真髄をダイレクトに示した彼の能力の高さだった。そのような伝授は、安定した、深奥な実践修行の究極的な基盤があってこそ可能なものである。これはたぐいまれな例外といえるだろう。ケンポ・ガンシャルはできるだけたくさんの人に教えを伝授したいと考えた。
彼は余生を孤独のうちに過ごすことを誓った隠棲者たちのもとを訪ねた。そして世間に戻り、彼ら自身のなかで隠棲することを学んだほうがいいとアドバイスした。
ケンポ・ガンシャルは因習を無視し、仏教の中核にまっすぐ入っていこうとした。チョギャム・トゥルンパはこのアプローチの仕方の影響を強く受け、スルマンでともに教えた2年間に同様のやりかたを学んだ。