スルマンに戻るべきか、インドへ脱出すべきか
チョギャム・トゥルンパはそのとき19歳だった。あとからならどうとでも言えるが、当時、彼にはよくわからない事態と直面しなければならなかった。彼は孤立し、中国人の意図に関しても、ガセ情報が多く正確なところが理解できなかった。この若い年齢で、はるか先まで見通して行動を選択しなければならなかった。とくにこの国にとどまるべきか、とどまるべきでないかは重大な選択だった。
スルマンのリーダーたちは彼らとともにとどまるよう圧力をかけた。学校の出納係ツェタルは状況が深刻であることを認めたがらず、すべてがそのうち元通りになると盲目的に信じ、希望した。
チョギャム・トゥルンパはチャムドに旅をし、そこでラトク近くの東チベット200の寺院を統括するカムパ・ガル寺院の長であるカムトゥル・リンポチェと会った。チョギャム・トゥルンパはすぐに彼に親近感を覚えた。しかしカムトゥル・リンポチェが秘密裏に計画しているインドへの逃亡に参加しないかと誘ったとき、チョギャム・トゥルンパは躊躇した。
「私がどんな選択をするにしても、それは私自身だけの問題ではなく、地域のすべての寺院、とりわけスルマンの関連した寺院、そしてすべての世俗の信者の運命に関わることなのです。だれもが私の立場を認め、私の動向に注目していました。そして私の指示に従う心の準備ができていたのです」
彼は申し出を断り、出納係ツェタルの考えに従うことに決めた。その頃出納係はチョギャム・トゥルンパに多大な影響力を持っていた。彼は『チベットに生まれて』に、尊い教えを守るためにチベットを離れるべきだという考えと、出納係の反対するのがむつかしいアドバイスとの間で揺れ動いた心を描いている。出納係は国が滅びかねない大災難を認識するのを拒んでいた。
事態は日々悪化し、チョギャム・トゥルンパは次第に出納係の議論が恐怖の表現であることを理解するようになった。彼は中国軍がスルマンに侵攻し、ナムギェル・ツェが破壊され、多数の僧侶が殺害されたことを知った。
チョギャム・トゥルンパはこうしたことが起こる前に身を隠していた。スルマンあたりで戦闘が起きているという知らせを受けたのは、スルマンから数日の距離にある近隣の寺院で灌頂を授けているときのことだった。スルマンに戻れないのはたしかだった。彼はより奥の谷に身を隠し、さらなるニュースが届くのを待った。彼は出納係をスルマンへ送って偵察させた。彼が戻ってきて言うには、中国軍がトゥルンパ10世の墓を荒らしているということだった。
まもなくしてドゥツィ・テルもまた攻撃にさらされた。中国軍の部隊は図書館に乱入し、すべての貴重な経典を床に投げ捨てた。祭壇の上の尊いもの、たとえば神像や灯明などは粉々に破壊され、金属だけ抜き取られて中国へ送られた。トゥルンパ10世の墓はあばかれ、防腐保存されている遺体はむき出しになったまま放置された。こうしてスルマンは中国の行政区である青海省の一部となった。
チョギャム・トゥルンパは政敵とみなされ、中国から追われる身となった。このような状況下でスルマンに戻るのは、夢のまた夢だった。もし戻ったなら、危険に身をさらすことになり、彼を支える人々に多大な迷惑を与えることになった。
逃げるしかなかった。すべてのことが起きているのに、出納係はなおスルマンを飲み込んでいる悲劇が国全体に波及することはないという望みにしがみついていた。