2 仏道の基本に立ち返る
チベットでは一般的に、仏道というのは寺院内で起こることである。寺院で戒を授かり、定期的に儀礼をおこない、祈祷をする、といったように。チョギャム・トゥルンパはしかし、このような活動を西欧に導入するのは無意味と理解し、仏道の根源、つまりブッダ自身が教えた瞑想の実践に立ち返るべきだと考えた。ブッダは菩提樹の下で瞑想しているときに悟りを得て覚者となった。
そのような単純なアプローチによってこそ、結果ばかりを求める欲望からのがれることができる。そして自分自身の根本的な本性や、あるがままのわれわれそのものと接触することができる。仏教の思想というのは、物事そのものと完全に結びつく覚醒の体験をするなかで、エゴ(自我)の防衛からひび割れが生じ、裸の、慈悲深い意識が、すべての輝かしいもののなかを突破することになる。エゴというのは基本的に「堅固であるという神話」を維持する恒常的な努力のことである。
習慣的な、運命的なメカニズムがわれわれをいままで以上にきつく縛り付けるので、われわれはけっして維持されることのない慰めとなる状況を確立するために格闘する。瞑想によってこの格闘が鎮められたとき、われわれは自身の、同時に全人類の内にある原初の智慧を発見する。それははじめから特殊な文化や精神的伝統と結びついていたわけではない。それはすべての人にとって彼ら自身の真の存在と通じ合う方法なのである。チョギャム・トゥルンパはこの点に関しつぎのように述べる。
「エゴはあなたという存在の安全性の上に栄えるものです。それを超えたところに、あなたの安全性の上に栄えようとする愚かさを見ることのできる知性があるのです」
真の精神的な道は、意識の特別な状態に至ることではない。それは解放するゆるやかなプロセスである。
「瞑想の実践を通して、我(セルフ)の非存在をわれわれは発見する」
このシンプルさゆえ、そのような修行は頼ることのできる唯一の堅固な場所であり、エゴにたいする恒常的な侮辱なのである。
ほとんどの教師が状況や生徒の質に応じて、異なる実践法を示すなかで、チョギャム・トゥルンパは、おびたがしいイニシエーションを与えながら、すべての生徒はこの場所、すなわち理解の根本に戻ってくるべきだと考えた。
彼がよく言ったように、われわれはいつも「スクエア・ワンに戻らなければならない」。アメリカに到着したときから、坐っての瞑想の実践は、彼の指導のもとで学びたいすべての生徒に紹介される最初のものだった。彼とともに学ぶというのは、第一に瞑想を実践することを意味した。
初心者にたいする基礎的な瞑想の強要は、チベットでは見られないものであり、西欧のほかのチベット瞑想センターにもないものだった。チョギャム・トゥルンパはそのことについてたびたび説明している。
「とてもあきらかなことですが、普通のチベット人はそんなにしょっちゅう瞑想のために坐りはしまません。それはチベットでは仏教の教えが退化しているということかもしれません。寺院のなかでさえ人を坐らせるのは困難であり、実際に真剣に坐っている人がいるとしたら、彼らは瞑想センターにいる人々なのです。瞑想修行は昔、よく実践されていました。それがわたしたちがしてきたことであり、していることなのです」
今日、チョギャム・トゥルンパが設立した瞑想センターにはじめて足を踏み入れたとき、人々はなかでおこなわれている主な活動が瞑想の実践であることに驚いてしまいます。センターがどのように組織されているか、また仏教徒は何かについて理解する前でさえ、彼らはクッションの上に坐って瞑想をするよう言われる。ティーチング・プログラムの期間中やマスターと呼ばれる人々がセンターを訪問しているときでさえ、ほとんどの時間は瞑想のために用いられるのである。