4 シャマタとヴィパシュヤナーの実践
米国に到着したとき、チョギャム・トゥルンパはもっともシンプルなやりかたの瞑想法を示した。
「坐ってください。そして空間を意識してください」
彼は異なるさまざまな生徒にさまざまな指示を出した。しかしこれは本質的な点だった。そして1973年のセミナリー(実践の上級プログラム)の期間、彼はより細かい、統一した指示を提出した。
「これまでのところリトリートとして私たちがおこなってきた瞑想を含む実践は、個人個人のスタイルに任せてきました。いま、システム化した、統一した実践が必要だと私は感じます」
それから彼は瞑想をシャマタ(チベット語でシネ zhi gnas 寂止)とヴィパシュヤナー(チベット語でラクトン lhag mthong 勝観)として説明した。生徒にわかりやすいようこれら二つの要素について説明しているが、実践者のためにそれらが分かちがたいことを指摘している。
「仏教の伝統では、瞑想の実践は全体が関わっているととらえます。すなわち身口意(身体、言語、精神)が全体的に関わっているのです。これはシャマタの実践です。そしてヴィパシュヤナーの実践は身体、言語、精神が全体的に関わっています。それに加えてあなたのまわりの状況を意識することにも関わっているのです。あなたはそんなにも多く関わっているので、自身が観察できる個人というものが存在する余地はほとんど残っていないのです」
シャマタという言葉は「平穏の発展」を意味する。平穏という言葉は痛みよりも、楽しみの観点から見た平穏ではなく、正確には調和である。実践者はあるがままの物事のあきらかな体験を発展させる。彼らは、極点なほど彼ら自身の体験の詳細と直接的な関係をもっている。つまり身体の感覚、呼吸の単純さ、さまざまな種類の思考の体験である。チョギャム・トゥルンパはつぎのように記している。
「実践のスタートラインであるシャマタ瞑想は、ナイフの研磨にたとえられます。それはすべての種類の身体の感覚と思考プロセスに通じる方法なのです。それについて考えるとか、明確化するというのではなく、ただ通じるのです」
「詳細を正確に決めると、人は周囲の空間を体験しはじめる」。これがヴィパシュヤナーの体験である。チベット語のラクトンは字義通りには「すぐれたヴィジョン」とか「完全なヴィジョン」といった意味となる。この言葉は一般的に「洞察」と訳されるが、チョギャム・トゥルンパは慎重にそれを気づき(awareness)と訳すことに決定した。ヴィパシュヤナーはしばしば分析的調査や物事の本質の吟味として提示される。たとえば自己や思考の本質の吟味など。チョギャム・トゥルンパはヴィパシュヤナーの気づきをシャマタの実践から自然に生まれる技法の不在として描く。
「ヴィパシュヤナーを論じながら、着座する瞑想の実践から湧き上がってくる、そしてゆっくりと毎日の生活に浸透していく正確さの感覚について話をしています。それには二つの方法論があります。純粋に分析的で、熟考する方法と、非分析的で、経験的な方法です。最初の方法は、あなたがもっと質問をするかどうか、あるいは現実および人の心の状態の本質をもっと吟味するかどうかを意識する可能性について語っています。しかし私たちの伝統では、ジャムゴン・コントゥルと同様に、非分析的アプローチで、つまりシンプルな経験的アプローチで純粋に語ります。それは実践する法統が継承するスタイルなのです」