5 約束はなし 

 このように実践を開始するとき、私たちがいかに混乱しているか、思考がいかに心の中で渦巻いているかがよくわかる。普段気づくことすらない潜在意識のノンストップのおしゃべりが、突然、低い雲の集まりとして現れる。私たちの人生の困難は、心の動揺や攻撃性、嫉妬、利己主義、高慢などから派生するのではなく、問題などないふりをすることから生まれてくるのだ。私たちはすぐに、目の前に横たわる小さなゲームの専門家になるのだが。

 瞑想の実践によって、多くの場合はじめて、われわれは自分が本当は誰なのかがわかる場所にアクセスすることができる。もはや「ふりをする」必要すらない。自分自身と友人になるという真の感覚のはじまりである。状況がどうであろうと、それをあるがままに見て、活動できるようになる。われわれはもう守りがないわけではないのだ。そのような交友はたんなる楽しい友情というわけではない。それはハードルを越えられる。

 それは瞑想の実践から生まれた。というのも何が起ころうとも個人的な判断をしない関係をわれわれは持っているからだ。

「着座して瞑想の実践をしているさなかに性的な空想をいだいたり、攻撃的な空想、たとえばライバルの鼻に一発パンチを食らわす、といったシーンを浮かべたりすることを、あなたの問題とみなしてはいけない。それは実際、約束とみなされるのだ」

 弱さや失敗すること、混乱を恐れて生きていくかわりに、それらをそれらそのものとして見る。自身にたいしてより洗練された接し方をすることも可能である。チョギャム・トゥルンパにとって精神性とは杖やニンジンを使うことではなく、自分自身との交わりの発見から始めることだった。どれだけ混乱が大きかろうが、われわれ自身がだれであるかを体験することから始めるのである。

 瞑想中に湧きおこるすべてのものに集中することによって、精神の動きが永遠でも堅固でもないことを理解するようになる。チョギャム・トゥルンパはしばしばエゴ(自我)を「砂上の楼閣を建てること」や「監視塔」あるいは「中央指令室」として描いた。しかしこの中央集権的欲望は真の存在ではなかった。エゴのなかで信じていることは、まちがいであるばかりか、われわれが自身や他者に課す痛みや苦しみの根源だった。

 一般的にいだかれるイメージとは違って、瞑想の目的は、個別の自我を滅し、すべてと一体化することではなかった。この第一の誤解から、第二の誤解が生まれることになる。瞑想を実践することで人々が弱く、優柔不断になり、現実世界とのつながりが切られてしまうという誤解である。しかし瞑想によって世界から逃走することはない。それどころか、瞑想をおこなうことによってわれわれはありのままの物事と接することができるようになるのである。それはわれわれを解き放つのだ。チョギャム・トゥルンパはこう言う。

「われわれははじめて自分自身を完全に、完璧に、美しく、自分自身を、絶対的に自分自身そのものを、見ることができるようになる」

 チョギャム・トゥルンパはつねにこの基本点に戻った。到達すべきゴールというものはなかった。われわれはシンプルに、水や風と接する岩や山のようにあるべきである。この種の瞑想の実践は鎮静剤ではない。実際、それはわれわれの情緒や恐怖を表面へと運ぶものである。それは征服へと導くのではなく、表面へと運んでピリッとした風にさらすのである。