マハームドラーの観点 

 瞑想を実践しているとき、思考の流れを止める間合いがあることに気づく。われわれはこのように心の働きの超えたところを見て、「現れ」が形を取る空間があることを認識する。そしてその生きている空間が何であるかわかりはじめる。

「坐る瞑想は生きているものです。自由空間における生きているもののあり方なのです」

 それは心によぎる雑念の空虚な性質をつかむということではない。雑念を空間の手触りそのものとして体験することも必要なのだ。すなわち、チョギャム・トゥルンパはシャマタとヴィパシュヤナーの瞑想法に、マハームドラーの観点を加えたということである。それによってわれわれは、自分自身の心の本質そのものと直接的な関係を持つことができるようになった。

「マハームドラーは刃のようにとても切れ味鋭いが、それだけで充足しているわけではない。それは意外にもカラフルである。シューニヤター(空)はむしろ灰色で、透き通っていて、鈍く、ロンドンの霧のようだ。心に浮かぶ想念というものは、思考がまったく欠けているわけではない。心が静かなときも、興奮しているときも、心の原初の寛容性を見ることができる。このように、要点をもう一度強調して言うと、散漫な雑念を止めるのが瞑想実践の目的ではないということだ。あふれる考えを解き放つことによって、あるいは目覚めた本質の創造的な力として理解することによって、そしてそれが副産物であることを認識して、雑念は生まれてくるのだ。彼らの絶対的な本性を認識することによって、それらが現れたとき――それは痕跡を残さないが――雑念を解放することができるのだ。

 瞑想の実践によって、われわれのなかに「空間」が浸透してくるのがわかる。このような体験のなかで「形は堅固で明確な形になる。色は輝く明確な色になる。音は明確な音になる。思考のプロセスもある意味、リアルになる。この点において思考を非難することも、それらを異なるパターンで作ろうとすることももはやない。それは自らによって考える思考である。

 この瞑想についての表現の仕方は、典型的なチョギャム・トゥルンパのスタイルである。彼はいつもすべての真の体験の生(き)のままの目覚めた本質を主張した。この実践のおかげで、われわれ自身を、もっとも明確な質に連結することによって、たとえばつねに美しい顔ばかりを選ぶのではなく、かわりにテーマを掘り下げることを心がける肖像画家のように、楽しかろうと、楽しくなかろうと、それぞれの体験の肌触りを評価することをわれわれは学んでいる。

 覚醒(悟り)を得ることが目的ではない。もっと過激に、原初の空間によってわれわれのすべての期待を溶解するのである。この寛容の体験をわれわれ自身がするということはない。エゴ(自我)はそれを想像することすらできない。もしこの体験を製造するなら、それは消えていくことになり、われわれ自身、死体をいだく結末になってしまうだろう。

 瞑想は、すべての制限から解き放たれて憩う、心の本性への招待状である。それは歓迎し、受け入れる状況にある。ゴールは表面上のことにすぎない。チョギャム・トゥルンパは瞑想を実践するとき、つねにこの基本に立ち返った。これは生きている存在への降伏であり、シンプルに、到達するのははるか先の話ということだ。何かをするのにはどうしたらいいかといった類の質問にたいする彼のお気に入りの答えは、「ただやればいい(Just do it)」だった。だれだってそのぐらいのフレーズは言えるだろうが、チョギャム・トゥルンパの場合、ゆるぎない確信はたずねた人を根本的に変えるだけの力強さがあった。