翻訳とは何か 

 わたしたちとはまったく異なる文化を持つチベット人が、西洋文化の外にある精神的伝統をわたしたちにどのように提示できるだろうか? この質問を真剣に受け止め、安易な答えを避ければ、それが根本的に重要であることが明らかになる。チベット語で表現されている内容を英語で表現するだけのことではない。より深く言えば、翻訳とは、(言語そのものによって構築された世界との別の関係性において)わたしたちが何を意味しているかを徹底的に考えることを意味する。思考は常に翻訳の一種といえる。言い換えれば、翻訳はわたしたちが言いたいことの説明である。

 チベット仏教の考えを翻訳するのは、元の言語、対象とする言語の両方で考えることを意味する。言語と実用的な関係を持つだけでは十分ではない。言語というのは、送りてから受けてへメッセージを伝送するだけのものではない。世界を体験する非常に深い方法なのである。この意味においてチューギャム・トゥルンパの取り組みは検証されるべきだろう。というのも彼はこの問題に多大な注意を払ってきたからである。

 彼の教えは、すでに述べられていることに満足しないよう、つねに努力を重ねるよう求めていた。彼の説教は、表現しようとした内容と直接的な関係があったため、生き生きとしていた。

 チューギャム・トゥルンパの著作のこの側面において、彼の天才の兆候の一つは、西洋形而上学の語彙と言語の習慣的使用を系統的に避けたことである。これらを避けなかったとしたら、ダルマがわたしたちに伝える本質的なことを見逃すことになっていたかもしれない。

 西洋哲学やキリスト教においてすでに表現されている概念を避けるのは容易ではない。というのも、すでに大きな価値が証明されている概念を再利用する傾向が強いからだ。しかしそうすることで異なる意味の秩序が混在し、両者の境が曖昧になってしまうというリスクがある。仏教思想は西洋形而上学とは異なるため、一方を他方を通して考えることは、両者との接点を失うリスクを伴う。

 弟子たちの学習と修行に必要となるチベット語文献の翻訳という膨大な作業に関して、チューギャム・トゥルンパは、専門の翻訳者ではない(つまりチベット学者ではない)実践者たちを集め、共同作業を行うことを決意した。これは特異な状況だった。翻訳グループはチューギャム・トゥルンパと面会し、作成した翻訳案について一行一行、議論を重ねた。このようにして、彼らは特定の用語の背後にある経験について、長く深い議論を重ねた。霊的体験を描写した文献を翻訳する際、チューギャム・トゥルンパは教えの本質そのものを明示した。こうして翻訳作業はもはや単なる言語上の作業ではなく、体験そのものとの関係性を深める訓練となった。

 彼が望んだのは、生徒たちが言語を体験する方法、つまり「人間が存在できるもっとも本質的な様式」を変えることだった。仏教を西洋に伝えるという文脈において、言葉が言語自体の中に根付くための空間を切り開くこと、つまり英語がダルマ的に話されるようになることが必要だった。

 哲学者であり翻訳家でもあるフランソワ・フェディエ(François Fédier)は、著書『翻訳の視点(regarder voir)』の中で、翻訳という行為の意味を明確な視点から考察している。彼は、翻訳とは、一般的に考えられているように、ある言語体系から別の言語体系へ移行することではないと説明している。この根本的な点、つまりコンピューターが真の翻訳をすることは決してできないことを理解するためには、翻訳の二つのレベルを区別する必要がある。

第一のレベル、彼が翻訳の可能性と呼んだレベルは、「言語が言葉の限界に達する」レベル。これは、それぞれの言語が真に語りかける時に、言語内部で行われる類の翻訳。わたしたちは、言語を実利的、習慣的、かつ即時的に使用するレベルから、より根本的な言語との関係性へと移行しなければならない。

第二のレベルは、ある言語から別の言語へ翻訳するレベル。その源泉は最初の翻訳にある。つまり、翻訳とは、同等の表現を探すことではなく、「最初の状況を再発見し、言わなければならないことに合った話し方を見つけなければならない」レベルのことだ。言い換えれば、それはあなたの言語が伝えるべきことを伝えることを許すこと。「しかしながら、それは、ある言語から別の言語に翻訳する人々が、その翻訳によって、何らかの形でその源泉にある原文を認識するようになるという事実を前提としている」。

チューギャム・トゥルンパが引き出し、伝えるべきことの基盤として用いようとしたのは、まさにこの原文だった。

 チューギャム・トゥルンパは、自らが説明した事柄の直接的な経験に立ち返った。たとえば、慈悲について語る際には、私たちがこの言葉から通常理解しているものを捨て去り、前提を捨て去り、その概念の核心に直接立ち返る必要があることを説いた。

「カルナ(karuna)は通常『慈悲』と訳されます。しかし、英語の『慈悲』という言葉には、カルナとは全く関係のない含意が込められています。ですから、悟りを開いた慈悲とは一体何を意味し、それがわたしたちの通常の慈悲の概念とどのように異なるのかを明確にすることが重要です。私たちは通常、慈悲深い人とは親切で優しく、けっして怒らない人だと考えます。そのような人は、つねにわたしたちの過ちを許し、慰めてくれます。しかし、悟りを開いた慈悲は、親切で善意のある魂という概念ほど単純なものではありません」。

彼は他の多くの言葉についても、そしてここでは「忍耐」という言葉についても、同じように語った。英語で「忍耐」という言葉は通常、「様子を見る」、つまり待つことを意味する。シャンバラの文脈では、「忍耐」とはそこにいることだ。ただそこにいること、つねにそこにいることだ。苦痛に耐えながらそこにいる、というような意味合いはない。

 チューギャム・トゥルンパはチベット語を用いる際、ほぼつねにその本来の意味を用いて定義した。語彙の本来の意味だけでなく、その用法や現代的意味との深い関係を築くために、彼はしばしば英語の語源を用い、愛用する全12巻のオックスフォード英語辞典を定期的に参照した。

 チューギャム・トゥルンパはこの創造的な活動に特に熱心で、適切な言葉を見つけようと、あるいはより正確には、言語が自ら言葉を見つけられるようにしようと試みた。彼はこのプロジェクトに多くの時間を費やした。

 彼は英語に深い知識を持っていた。文法は少々不完全なところもあったが、語彙力は非常に卓越し、それぞれの単語が持つさまざまな含意の微妙なニュアンスにまで細心の注意を払っていた。

 現在、アートマン(atman)とアンアートマン(anatman)の概念を翻訳する際に「自我(ego)」と「無我(egolessness)」という用語が使われているのは、基本的に彼のおかげだろう。これらの用語の以前の翻訳を吟味すると、それらは一般的にキリスト教の伝統から引用されたことが示され、「魂(soul)」という言葉が選ばれた理由が説明される。彼が得た注目すべき洞察の一つは、仏教思想との類似点は宗教よりも心理学において見つけやすいかもしれないという点だった。これが、彼が語彙を心理学の分野に求めた理由を説明している。例えば、彼は不安を第一の聖なる真理を表現する方法として語り、悲しみ(sadness)と憂鬱(depression)という概念を用いた。彼はチベット語の「ディクパ(dikpa)」を、キリスト教的な意味合いが強すぎる「罪(sin)」ではなく、「神経症的犯罪(neurotic crimes)」と翻訳した。

 同様に、<soldep>を「祈る」と訳すのはニュアンスが強すぎると感じたため、彼は<supplicate>(嘆願する)という言葉を好んだ。彼は「神聖さ(holiness)」よりも「神聖さ(sacredness)」について多く語った[holinessのほうがより宗教的。His holinessはローマ教皇やダライラマの尊称である。Sacrednessは宗教的でない神聖さを表す]。自身の経験や宗教的慣習について直接語る時でさえ、彼は可能な限り有神論的な表現を避けるよう注意を払った。こうして、仏教の道は、それが使われていた文化に正しく響く語彙のおかげで、全く新しい、異なる聴衆へと開かれた。彼は意図的に、当時の詩、文学、そしてポップカルチャーの言語を用いることを選んだ。

 これにより、彼は人々の心に残る、心に響く言葉を生み出すことができた。たとえば、「振り出しに戻る」「剃刀の刃に乗る」「精神的物質主義を切り開く」「混乱を知恵に変える」などだ。チューギャム・トゥルンパは、音と感覚を結びつけようと、擬音語を多用した。さまざまなレベルとさまざまな方法で、彼は言葉が神聖なものと結びついていると強く信じていた。

 チューギャム・トゥルンパは、こうして新しい言語を創造した。慈悲、忍耐、自我、瞑想、苦しみ、希望、そして恐怖、悲しみ、勇気といった言葉は、もはやわたしたちの日常生活において以前と同じ意味を持たない。

 1980年に、弟子たちと共同で翻訳したカギュ派の師たちの歌集『知恵の雨』の序文で、彼はこう記している。「私は、基本的に有神論的な英語が、今や実践の系譜によって祝福され、非神論的で悟りを開いたダルマを表現するための素晴らしい媒体になりつつあることに、初めて気づいた」。[非神論(nontheistic)は、神の実在を信じるかどうかは本質的ではないとする考え方で、神は実在しないとする無神論とは異なる]