2 三つの伝授の様式
すべての真に偉大な精神的指導者と同様に、彼の教えの本質はその内容だけではなく、直接的かつ個人的に伝授されることにあった。
こうした伝授が何を意味するのかを理解するために、ごく単純な例を挙げてみよう。わたしたちは皆、大切な本について語ってくれる人を知っているだろう。そしてその本への愛情が伝わることで、その人の経験に触れる扉が開かれる。たとえばわたしが彫刻をきちんと見ることができず、その芸術形式にまったく興味を持てないことをある先生に話したときのことを思い出す。先生は20世紀を代表する偉大な芸術家、フリオ・ゴンザレス(1876-1942)の作品を見に行くように勧めてくれた。
「ゴンザレスを見れば、彫刻の素晴らしさがわかるでしょう。彫刻が生み出す空間に注意を払いなさい。彫刻は絵画と同じように見るべきではありません。みぞおちで感じなければならないのです」と先生は言った。先生のアドバイスに従い、芸術作品の前にどのように身を置くべきかを実際に示してくれたおかげで、わたしはついに彫刻を真に理解することができた。はじめて私にとってはそれまで不明瞭だった次元に目が開かれたのである。
精神性においては、このアプローチは極めて重要だ。しかし現在のわたしたちの文化には欠けているのが現状といえる。本当に重要なのは、師が持つ修辞理論的な知識ではなく、与えられたテキストだけでなく、世界全体をどのように理解しているかである。
これはわたしたちの存在全体に影響を及ぼすという主な特徴を持つ、霊的な影響力の伝達と言えるだろう。このような伝授は単にメッセージを伝えるというよりも、師が世界を経験する方法への入り口であり、わたしたちも同じように感じられるようにするためのものである。
これはわたしたちの存在全体に影響を及ぼすという特徴を持つ、霊的な影響力の伝授と言えるだろう。このような伝授はたんにメッセージを伝えるというよりも、師が世界をどのように体験しているかを知るための入り口であり、わたしたちも同じように感じられるようにするためのものである。
密教の伝統では、伝授には三つの様式があるとされている。悟りの伝授における第一の様式は、言葉、より一般的には概念や観念を用いて行われる。しかし月を指し示す指が月そのものではないように、言葉は私たちがまだ生きなければならない経験を示すに過ぎない。このレベルの説明は、教えにとって不可欠でありながら、部分的な貢献に過ぎない。
第二の伝授の様式は特定の文脈を作り出すことにある。
「師にできるのは、状況を作り出すことだけです」。
『瞑想実践』で簡潔に表現されるように、教えが行われる状況はいわば劇場である。座席、舞台、照明など、すべてが準備されている。劇場に入ると、すぐに何か特別なものに参加することになるという感覚を覚える。師が具体的に何をするかは重要ではない。重要なのは、師が作り出す状況だ。チューギャム・トゥルンパはこう説明する。
「冬を経験したことがなかったら、夜、服を脱いで雪の中に横たわるのがいいでしょう。言葉を使わずに、冬とは何かについて非常に良い教訓を学ぶことができるのです。冬に関する本を読むのもいいですが、直接的な経験にはまったく及びません。その経験は恐るべきもので、非常に力強いものです。このレベルの伝授とは、生徒が教えを直接体験できるようにするということなのです」。
最後に、悟りを伝授する第三段階では、師は弟子と自らの心を共有する。それは空間と「もっとも透明なエネルギー」の体験だ。しかしこのような空間は、静寂や宗教的な次元とはまったく関係がない。むしろそれは挑発的で満ち足りたものである。
「伝授とは、単に両側に開かれること、すべてを開くことです。人は自分自身を完全に開くことで、たとえほんの数秒であっても、何らかの大きな意味を持つようになります。それは悟りを開いたということではなく、現実がどのようなものであるかを垣間見たということなのです」。
チューギャム・トゥルンパとともにいることは、現実を体験することを意味した。それは仏教徒が「ダルマ(法性、現実の在り方)」と呼ぶものだ。不思議なことに、現実はわたしたちの概念や期待にけっして反応しない。
このような伝授は形式的に行われることもあるが、師が醸し出す雰囲気の中に宿ることもある。師の存在の中で、わたしたちは悟りの存在に触れるのだ。